つまり、第2回の道長が「仕事で忙しい」といいながら、勤務実態がよくわからず、トレーニング風景ばかりが映っていたのは、考証サイドの意見を反映してのことなのかもしれません。
当時の朝廷は本当に厳格な身分社会ですから、貴族の男性はまさに「出世すごろく」の駒となり、マス目に沿って、少しずつ、着実に進んで行かざるを得ないわけですが、女性の出世のセオリーはその限りではありません。
たとえば道長の姉・詮子は、史料の中でも、ドラマにも描かれたように円融天皇との不仲が噂されることが多いものの、彼女が入内した天元元年(978年)8月の時点ではむしろ天皇から寵愛されていたのではないか、と思われます。しかし、この時、円融天皇の中宮――数いる妃たちの中の頂点は藤原媓子という女性でした。
媓子は円融天皇より12歳年上でしたが、夫婦仲はとてもよかったそうです。しかし、2人には子どもがいませんでした。
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