『宇治拾遺物語』では、藤原保輔が太刀や馬の鞍、甲冑、絹など高級品を扱う商人を自邸に呼び寄せ、蔵で金を払うと見せかけて、雇った盗賊の手で殺し、蔵の中に掘った深い穴に蹴り落とさせることを繰り返していたとされています。かなりエグいことをしていたようですね。
そんな犯罪を繰り返しておきながら、彼がろくに逮捕もされなかったのは、当時の社会が身分第一だったからです。しかし、尊重されたのが保輔自身の身分というより、彼の「ボス」にあたる人物がときの太政大臣・藤原兼通の長男で、藤原顕光という「公卿」だったからでしょう。おそらく、保輔の数々の犯罪は自分が「大物」の庇護下で無敵だという慢心、そしてときには顕光からの指示もあって行われていたものだからと推察されます。
しかし、永延2年(988年)、ついに保輔が逮捕されています。顕光が彼を匿ったものの、顕光の実弟にあたる藤原朝光が「バカ兄」顕光に対するクーデターを決行し、ようやく年貢の納め時となったのですね。
ところが、この時に捕縛されたのはあくまで「従五位下」、つまりギリギリ「貴族」と呼ばれる身分にすぎない藤原保輔だけで、「公卿」である顕光はろくに詮議もされず、無罪放免となりました。