そして「摂関記古記録データベース」によると、一条天皇の治世――特に長徳年間になったあたりから、梅雨もしくは秋雨の雨で、鴨川の氾濫が多発したようです。ドラマに登場したのは、長徳4年(998年)9月初頭の鴨川大氾濫で、藤原行成(ドラマでは渡辺大知さん)の日記『権記』には「霖雨に依りて一条の堤、壊ち、鴨河、横流す。府に入ること海のごとし」とあります。

 要約すると「秋雨で鴨川の堤防が決壊し、京都市中が海のように泥水で満たされてしまった」ということなのですが、このような惨事がしばしば起きていたようです。『権記』には、その前年・長徳3年(997年)5月にも鴨川が氾濫し、「一条より近衛御門の末に至るまで」が水びたしになったという記録があります。鴨川には、天長元年(824年)に「防鴨河使(ぼうがし)」が設置されており、朝廷が鴨川の治水工事に取り組んでいたことがわかるのですが、あまり効果はなく、一条天皇の時代にも相次ぐ被害が出ていたのでした。

 ちなみに、洪水被害を防げなかった道長が辞表を提出するというドラマの描写は、例によって道長をヒーローとして描くための史実を背景にした演出でしょう。これまでも道長の姉の詮子(吉田羊さん)が自身の病気治癒を目的として、地方に左遷されていた伊周・隆家兄弟(三浦翔平さん・竜星涼さん)に恩赦を与え、定子の後見人のようにも振る舞っていたと本連載でお話しましたが、実は身体が弱かった道長は病気になるたび、出家したいとか、自分の高い地位や特権を抛(なげう)つ覚悟で天皇に「辞表」を提出し、それによって神仏に病気治癒を祈願したようです。

 道長のような剛腕を振るう人物でも病気のときは気が弱ってしまうようで、「出家はやめなさい」などと天皇が引き止めてくれると、気を良くするという困った傾向もありました。「死ぬ死ぬ詐欺」ならぬ「辞め辞め詐欺」の悪癖が道長にあったということでしょうね。

 たとえば前回のドラマで描かれた長徳4年にも道長は辞表を提出していますが、それは洪水が起きた9月ではなく、道長の日記『御堂関白記』によると7月のことでした。『権記』によると、同年3月3日にも「左大臣(道長)、重く腰病を煩ふ事」という記述があります。おそらく道長はギックリ腰だったのでしょうが、それでも宮中への参内ができないことなどを理由に左大臣の辞表を天皇に提出していたようです。