当時の婚期を大幅に過ぎているまひろにとっては、妾ではなく、相応に適した人物の妻になれる「ラストチャンス」という打算があったのかなぁとも思ってしまいましたが……。

 ドラマの後半部では、一条天皇(塩野瑛久さん)が中宮定子(高畑充希さん)との情事におぼれ、政をないがしろにしているうちに鴨川の堤防が決壊して多くの民の命が奪われ、道長(柄本佑さん)が「主上(おかみ)を説得できない自分は左大臣にふさわしくない」という辞表を提出……というやりとりがありました。全体的に「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」、政治と個人の感情が交錯するように描かれていたと思われます。

 今回はこのあたりを中心にお話していきますが、平安時代後期に絶大なる権力を誇った白河院が、「この私でさえ思い通りにならないもの」として「賀茂川の水と双六の賽と比叡山の僧兵」(『平家物語』)と言ったことからも、京都市中を流れる「加茂川(=鴨川)」が梅雨時、もしくは秋雨時に氾濫して大被害をもたらすことは京都に住む人たちの間で身分に関係なく、大きな悩み事になっていたことがわかります。

 現代では正式表記が「鴨川」ですが、口語的には出町柳より上流を「加茂川(賀茂川)」、それより下流を「鴨川」などと区別することがあるようです(「上賀茂神社」と「下鴨神社」の表記の違いはそういうわけなのですね)。

 しかし、平安時代中期の公卿の日記などを集めた日文研の「摂関記古記録データベース」で検索してみたところ、当時は「鴨川」ではなく「鴨河」の表記が一般的だったことがわかりました。当時の鴨川がいかに広大な流れとして、京都の人々に認識されていたかを示すものですね。「河」という漢字は、「川」よりも約50倍も大きな流れに対して使うものだそうですよ(日本河川協会のホームページより)。