家康は、今川家重臣の鵜殿長照の居城・上ノ郷城を攻め落とし、鵜殿父子もしくは彼の遺児たち二人を人質にして、瀬名姫と子どもたちの身柄と交換することに成功しました。これが永禄5年(1562年)の話です。しかし、瀬名姫は築山に住んだため、岡崎城の家康と再び同居することはなかったようです。築山殿の身柄は取り戻せても、彼女の家康への愛情はすでに完全に失われ、二度とは取り戻せなかったと考えるほうが自然なんですね。要するに、「民の声を聞く」という夫を支える正室の仕事の一環として築山に庵を開いたとするドラマとは違って、史実の彼女はただ家康と没交渉でいたいから別居していた可能性が高いということです。
「築山殿は嫉妬深かった」という噂は根強くありますが、その根拠はありません。側室を迎える際には正室の許可が必要なのですが、史実では、あっさりと承認していたのかもしれません。むしろ、この時期に家康が多くの女性に手を出していったのは、「本当にお前はこれでも平気なのか?」という別居中の妻へのアテツケだったのかも……。
史実の西郡局がいつ家康の側室になったかについても、よくわかりません。瀬名姫の身柄を取り戻した3年後となる永禄8年に西郡局は督姫(家康にとっては次女)を産んでおり、それ以前から男女の関係になっていたことはわかります。ただ、彼女を側室にした背景には、子ども云々というより、「今川家臣・鵜殿家の血筋の娘」という部分が大きく作用した気がします。
家康が上ノ郷城攻めで滅ぼした鵜殿家は、いわゆる「上ノ郷鵜殿氏」といわれる一家で、それ以外の鵜殿一族は戦後、今川家を見限って家康に臣従したと考えられています。かつては今川家に臣従した鵜殿一族の女性が家康の側室になることは、国内外に家康と旧・敵対勢力の宥和がアピールできるという戦略的な意味合いがあるのです。