また大陸の治安は唐の滅亡後、混乱状態に陥りますが、天徳4年(960年)の宋王朝の建国とともに落ち着きを見せました。それでも日本の朝廷は、外国との公的な貿易を認めたわけではないのですが、高麗からの使節の珍しい献上品の数々に心ひかれた大貴族たちは、高麗や中国の宋王朝相手に、地方に私有した荘園経由で密貿易を行い、さまざまな「舶来上等」の品物や、質のよい貨幣などを10世紀頃からひっそり輸入していたのです。自分の息がかかった中級貴族たちを国司(地方役人)にするウラの理由もおわかりいただけるでしょう。もちろん私貿易は違法行為でしたが、「私有地」である荘園内でこっそりやる分には見逃してもらえたようです。

 平安時代の日本では、中国など諸外国の影響力が低下し、過去に輸入された外国文化を日本風にアレンジして愛好する「国風文化」が隆盛しました。独自の美意識が育まれたのも事実ですが、当時でも外国から運ばれてくる珍しい文物はクールなもの、おしゃれなものとして珍重された一方、流行り廃りもありました。

『源氏物語』には、不美人の没落令嬢で、時代おくれの代名詞のように描かれている末摘花が、ボロボロの装束の上に不似合いなくらいに立派な毛皮をまとって登場しています。なぜ、紫式部がわざわざ末摘花に毛皮をまとわせたか。これには理由がありました。かつて日本が交易していた渤海の特産品が毛皮だったからです。しかし、紫式部が生きたのは、渤海が滅亡してから50年以上は経過した時代でした。毛皮は依然、高価ではあっても以前ほどはファッショナブルなアイテムではなくなっており、それをあえて末摘花にまとわせることは、彼女が昔は富裕層だったものの没落した家系の姫で、最近の流行にはまったく疎い女性だということを一瞬で読者に理解させるのに最適だったからです。

 実は末摘花には実在のモデルだと目される男性(!)がいます。平安時代中期の帝・村上天皇の母違いの兄だった重明親王の息子・源邦正です。彼は光源氏同様、源の姓をいただき、臣下に下った人物なのですが、顔色がいつも青白かったので、皆からは「青常の君」とあだ名され、軽く扱われるような立ち位置にまで没落していました。鎌倉時代前期に書かれた説話集『宇治拾遺物語』にも源邦正の名は語り継がれていました。鼻がやたらと大きく、その先が赤いなどの外見的特徴があったそうで、これは『源氏物語』の末摘花の特徴と同じなのですね。ほかにも源邦正にはヒゲが赤い(茶色い)などの特徴もあったそうです。

 カンの鋭い読者はピンと来たかもしれませんが、源邦正は重明親王と、ペルシャ系などの外国人女性との間に生まれた子……かもしれないわけですね。