また、昼は散楽の役者、夜は盗賊をしている直秀(毎熊克哉さん)にも注目が集まりました。直秀は「都を去る」と発言し、驚くまひろに「一緒に行くか」と語りかけていました。「京都の外には海があり、かの国との商いもある」といったセリフもありました。

 今回は平安時代の京都の貴族たちにとって「かの国」とは、どこを指しているのか、さらに紫式部の時代には外国との交流はどうなっていたかなどについてお話しようと思います。

 日本の朝廷において外国といえば、それは東アジア最大の大国・中国を指していた時代は長かったと思います。はるか古代から、中国との交流を積極的に行ってきたからです。奈良時代・平安時代初期までの隋王朝・唐王朝との交易は特に有名ですね。ドラマでも取り上げられた打毬競技はペルシャから中国を経由し、奈良時代の日本に輸入されたと以前もお話しましたが、唐王朝との約260年間に及ぶ関係も、寛平6年(894年)、遣唐使が廃止されたのに伴って途絶してしまいました。

 遣唐大使・菅原道真が遣唐使の廃止を帝に提案した背景には、勢力が衰えてしまっても傲慢な態度を崩さない唐王朝に、今さら頭をさげてまで付き合ってもらう必要はないという政治的な判断がありました。しかし、中国との関係の希薄化は、これまで中国を通じて輸入できていた、ペルシャなどさまざまな外国からの文物がさらに入手困難になることも意味していたのです。