当時、NSCの入会金は三万円。月謝は一万五千円。彼らは三カ月分を前払いしていたが、四カ月目からは払わなくなった」(2人を知る吉本関係者)
そこで初代校長・冨井善則は、アルバイトを2人に紹介したという。大阪ミナミの八幡筋にある雑居ビルの2階のスナック「P」。夕刻、出勤したママは、1階にまで響き渡る浜田のカラオケの歌声に苦笑したそうだ。
「鍵を渡してたんやけど、お客さんがいないのに、カラオケを歌うてんのよ。浜ちゃんは松ちゃんに比べたら音程はマシで、演歌の『氷雨』なんかを歌ってた」(Pのママ)
時給は800円程度だったという。皿洗いの合間、彼らはカウンターの下にしゃがみ込み、まかないのカレーを食べ、最終電車に乗り遅れると、ママは彼らに1万円を握らせ、タクシーに乗せたという。
だが、2人は角を曲がるとこっそり降車し、お釣りを握ったまま、コーヒー牛乳を片手に朝まで徘徊したそうだ。
「次の日もバイトに来るんだけど、服も一緒で風呂に入っていないから、どうしようもなく臭いのよ。私の家がNSCと近かったから、よく遊びに来たわ。うちでは録画した『オレたちひょうきん族』を笑いながら見るわけ。研究してたんかな。お金がないから、朝は出前をとってあげて、それを食べてぱっと学校に行きよった。私は、売れると思ったから一緒にいた。あの頃は楽しかったし、今でも誇りに思ってる」
松本人志たちの最初の萌芽は1982年7月、今宮戎神社で催された新人漫才コンクール。「松本・浜田」のコンビ名で出演した2人は、参加した25組の中で勝ち抜き「福笑い大賞」を受賞する。
彼らの不遇の時代について明かすのは、吉本興業元常務取締役の木村政雄である。
「横山やすしさんが司会を務める番組でダウンタウンがネタをやったんです。それを見た横山さんが『お前らのは芸やない。チンピラの立ち話や』って。その言葉で彼らはすごくショックを受けているようでした」
さすが横山やすし、いいことをいう。
しかし、小劇場から燃え盛った人気は関西を席巻し、1987年4月、ダウンタウンはレギュラー番組『4時ですよ~だ』(毎日放送)を獲得し、全国区へと広がりを見せていく。