私は学生時代のほとんどをバーテンダーとして“就職”していたから、学生運動とは無縁だったが、現代の記者たちの多くは、安保闘争や大学紛争の中で名をはせ、逮捕されたり、大学を退学させられた人間たちであった。

 優秀だが仕事にあぶれていた彼らは、履歴書はもちろん、実名かどうかさえ問わず、何の実績がなくても明日からすぐ仕事ができ、カネ払いもよかった週刊誌記者に雪崩を打って入り込んできた。

 さながら元過激派たちの「梁山泊」の様相を呈していたのである。

 当時、在籍していて、後にグリコ・森永事件の犯人「キツネ目の男」と疑われた宮崎学が『突破者』(南風社)の中でこう書いている。

「党派でいっても、日共、革マル、青解、中核、ブント、黒ヘル、アナーキストと各派そろっており、大東塾系の右翼もいた。社会的アウトサイダーの巣窟のようなものである」

 私と仕事をした朝倉恭司記者(後に事件もののノンフィクションライター)は、反戦運動が高まっていた1966年に起きた、ベトナムへ機関銃を輸出する軍需工場襲撃事件に深く関わっていたといわれていた。

 実際、三菱重工爆破事件の主犯、大道寺将司(死刑確定後に病死)や齋藤和(服毒自殺)、その内縁の妻であった浴田由紀子(懲役20年)とつながりのある記者もいた。

 そんな週刊誌の黄金時代をつくった強者たちも次々にいなくなってしまった。桐島聡が現代の記者に紛れ込んでいたら……。そんな“妄想”が浮かんで消えた。