さて、半世紀もの間逃亡者として生きてきた桐島聡が、死ぬ間際に「桐島として死にたい」と漏らし、その4日後に亡くなってしまった。

 逃亡中は内田洋と名乗り、神奈川県藤沢市の工務店に40年ほど勤務していたという。

 その近所の風呂のないアパートに住みながら、地元に根付いた普通の暮らしを送っていたようである。

 彼がよく通っていたといわれる音楽バーのママは、
「彼が初めてここに来たのは20年近く前だったかな。最後に来たのはコロナ禍の前でした。他のいろんなお店で飲んだ後に“ウェーイ”って感じでやってくる。ジェームズ・ブラウンが好きで、ここではバンドの生演奏やDJがかける音楽を聴いて踊っていました。演者からありがとうって言われるくらい、いい感じで上手にノッてよく場を盛り上げてくれていたんです」

 さらにこんな話も。

「けっこう前だけど、30歳くらいだった女の子がウッチーを好きになっちゃって、告白したことがあったんです。そうしたら彼は“自分は歳をとっているから、君を幸せにできない”って断ったんだとか。このあたりでは知られた話で、二人は優に20歳は離れていました。これを聞いてウッチーを素敵だなって思ったのを覚えています」

 結局事件については何も語らずに逝ってしまった。

 ここで、私が日刊ゲンダイ(2月3日付)に書いた桐島に関する拙文を引用してみたい。

〈約半世紀もの逃亡生活を続けていた桐島聡容疑者(70)は、亡くなる前に「最後は桐島聡として死にたい」と、本名を明かしたという。

 桐島は約40年にわたり神奈川県藤沢市の土木会社に住み込みで働いていたそうだ。内田洋と名前を変え、「ウッチー」と呼ばれ、藤沢駅近くの飲食店に月1,2回通っていたという。

 店のオーナーによると、「他の店で飲んだ後や銭湯の帰りに1人で来た。(中略)1960~70年代のロックが好き」(朝日新聞1月29日付)で、生バンドの演奏があると自らも盛り上げ、踊っていたという。

 私は桐島についての記事を読み漁りながら、三菱重工爆破事件が起きた日のことと、1970年代の週刊現代の記者たちのことを思い出していた。

 爆破事件(1974年8月30日)から数時間後、私は非常線をかい潜って現場にいた。

 入社4年目、週刊現代に異動して間もなかった。爆発で砕け散った窓ガラスの破片が道路を埋め尽くし、光の川のようになっているのをボー然と見つめていた。
 死者8人、負傷380人。史上稀にみる凶悪なテロ事件。翌日出された犯行声明には「東アジア反日武装戦線“狼”」とあった。

 70年安保闘争や多くの大学を舞台に繰り広げられた学生運動が「東大安田講堂陥落」を機に下火になり、空虚感が漂う中、少数の過激派たちが爆破事件や凄惨な内ゲバ、あさま山荘事件を起こしていった。

 当時、新聞、テレビ、週刊誌が過激派の取材合戦を繰り広げていたが、私は、週刊現代の情報量や取材力は新聞を凌いでいたのではないかと思っている。

 その理由は、現代にいた記者たちの多様性にあった。