だが、この日のスタジオではさほど盛り上がらず。MCの上田晋也は「残すくらいかな?」と疑問を呈し、有田哲平も「わざわざあれ1個持ってきたの?」、劇団ひとりも「面白いですけど、普通に及第点」と厳しめの評価を下した。これには春日も「変えてもいいですか? 体張ったやつがあると思うんで」と慌てるしかなかった。

 だが、春日が数ある肉体系の仕事ではなく、ここでトークを選んだことには大きな意味がある。あの日の『すべらない』は、オードリーというコンビの在り方を変えた転換点だった。

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 2000年にナイスミドルというコンビ名でデビューしたオードリーは、08年の『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)での準優勝まで、ほとんどその名を知られていなかった。都内の地下ライブを転々としながら、苦悶の日々を送っていた。いや、正確には、苦悶していたのは若林正恭だけだった。

 ネタライブのほかに、若林は早い時期からトークを磨く必要を感じ、オードリー単独でのトークライブを企画していた。事務所が会場を借りてくれるわけではないし、ファンがいるわけでもない。会場は春日が当時暮らしていた「むつみ荘」という風呂なしアパートの一室だった。

「小声トーク」と名付けられたそのトークライブは、05年から06年にわたって計12回行われている。毎回、約2時間。観客は多くて8人。春日が自ら阿佐ヶ谷駅に出向き、物好きなファンを迎えていた。