方広寺は現在の京都市東山区にある天台宗の寺院で、秀頼の亡父・秀吉が文禄4年(1595年)に創建しました。創建当初は「方広寺」という名前ではなく、本尊である19メートルもの毘盧遮那仏(いわゆる大仏)を安置する場所として、「大仏殿」などと呼ばれていたようです。

 しかし慶長19年(1614年)、秀頼主導のもと制作された梵鐘に刻まれていた銘文に関して、徳川家からクレームがつきました。「家康が一日も早く豊臣家を潰すためにイチャモンをつけた」という見方が一般的なようですが、筆者は秀頼が家康に宣戦布告を図ったのではないか……と考えています。

 問題となった梵鐘の銘文は、南禅寺の長である清韓という僧が発案したものです。徳川家からのクレームは、そこに用いられた「国家安康」「君臣豊楽」のフレーズでした。家康の諱(いみな)が「安」の文字で分断されているので、「家康が切られ、豊臣が栄える」という裏の意味を持たせたものだろうと疑われたのです。豊臣家は釈明を試みましたが、結局、大坂の陣(慶長19年~20年/1614~1615年)という大戦勃発の要因になってしまいました。

 徳川側のクレームはイチャモンなのかどうなのかという点ですが、起草者の清韓が銘文の中に「豊臣」とか「家康」の文字を意図的に折り込んだと認めていることは見逃せません。清韓は「祝意」のつもりだったと弁明していますが、形だけの言い訳でしょう。秀頼は漢文に秀でたインテリですから、徳川家からクレームがついて、戦が起きてしまう未来までを想定した上で、清韓に問題の文章を書かせたのではないかとも考えられます。