しかし、一次資料で語られる秀頼はさらにインパクトの強い外見をしていました。ドラマの秀頼とは異なり、史実の秀頼はとにかくタテにもヨコにもデカかったようなのです。見目麗しかったという説もありますが、『明良洪範』という史料には「御丈六尺五寸」……身長195センチとあり、『長沢聞書』によると「世になき御ふとり也」、つまり「めったに見ないほどの巨漢」だったとされています。しかも日本人だけでなく、たとえばスペイン人商人のヴィスカーノも、慶長17年(1612年)に大坂城で秀頼に謁見した際の印象を「非常に肥えふとり、自由に身を動かせないほどである」と証言しているので、秀頼は誰の目からも「デカすぎる男性」だったようです。

 それも、単なる肥満ではなく、今でいえば力士とかヘビー級のプロレスラーみたいな体型だったのではないかと思われます。当時の日本に滞在中のオランダ東インド会社の社員が長崎・平戸の商館長に宛てた手紙が最近発見されており、その中で秀頼の怪力ぶりが語られているのです。それによると「秀頼の数人の大名が、赦免が得られると考え、皇帝(=徳川家康)側に寝返るために城に火を付けたが、彼らは逃げる前に秀頼によって、その場で落とされて死んだ」そうです。

 もちろん、この「落とされて死んだ」を、「秀頼が裏切り者の首根っこを掴み、城から放り投げて殺した」と考えるか、「突き落として殺した」と解釈するかでかなり印象が異なりますし、『東照宮御実記』などの日本側の信頼できる史料には秀頼自ら誰かを粛清したとするこの逸話についての情報が見当たらないため、この東インド会社社員の報告書の信頼性に問題があると見る人もいます。しかし、筆者にとって重要だと思われるのは、いざとなれば怪力を発揮し、人を突き落として(もしくは投げ落として)殺すことができるだけの潜在的なパワーが感じられるような体型だったからこそ、この手の「噂」が出たのではないかという点です。当時、紙やインクといった筆記用具は貴重品ですし、大坂から平戸まで手紙を送ることもかなり高くつきました。現代人の我々のように気軽にメッセージの往復ができなかった17世紀初頭の状況を考えると、わざわざそのような逸話を綴ったということはよほど印象的だったのでしょうし、当時の秀頼について底知れぬ力を秘めた「モンスター」であるという認識が存在していたのだと思われるのです。

 身体の大きさ、たくましさにも象徴されるように、秀頼は性的にも早熟でした。千姫が16歳で男子の元服に相当する儀式を終えるまで――つまり彼女が寝所で妻としての役割がこなせるようになるまでの間に、千姫より4歳年上だった秀頼は2人の側室との間に男女2人の子どもを授かっています。