もっとも秀頼は、千姫が“元服”を終え、名実ともに自分の妻になると、側室たちを遠ざけ、千姫を大切にしました。当時の女性の“元服”では、前髪の一部を切り揃える「鬢削ぎ(びんそぎ)」の儀式が行われましたが、千姫の髪を切ってやったのが秀頼でした。光源氏と紫の上を彷彿とさせるような、仲睦まじい夫婦であったようです。秀頼が複数の側室と子どもを持ったのを見ても、千姫が焦ったという記録はなく、それはつまり7歳で大坂城に嫁いだ千姫が秀頼からの愛情を確信していた……ということなのかもしれません。

 秀頼が早熟の巨漢で、生殖能力が高いことなどは、すべて亡父・秀吉とは正反対なので、茶々が大野治長などの子をこっそり宿したのが秀頼だとする伝説が生まれるのも仕方ないことかもしれません。しかし、秀頼生母の茶々自身、父方から受け継いだ浅井家の遺伝子によって高身長であったともいわれ、以前にもこのコラムで説明したように、上記のような特徴から「秀頼は秀吉の実子ではない」と結論づけるのは早計でしょう。

 秀頼は、幼い頃から書を学び、学問に深い造詣がある人物でした。これは秀吉譲りの才能かもしれません。秀吉は「農民の子」と蔑まれがちですが、非常に達筆ですし、自分の考えを思ったとおりに文章化できるという、当時では稀な才能がありました。さらに茶々は教育熱心だったので、早期から英才教育を受けた秀頼の知性はいっそう磨かれました。

 秀頼は、関ヶ原の戦い以降はさらに幅を利かせるようになってしまった徳川家康を抑制するべく、己の知性を政治パフォーマンスに活かしています。中国古代からの聖人君子の事績を集めた『帝鑑図説』という教育書を自ら編集し、通称・秀頼版の図説を有力大名たちに配ったのです。当時、秀頼はまだ14歳の少年でしたが、この頃にはすでに、自らを早熟の聖人君子で「天下人」にふさわしい器であると周囲にアピールしていたのでしょう。

 また、秀頼は伝統文化の保護にも熱心で、戦乱の世の中で廃絶したり衰退した寺や神社を熱心に復興させたことで知られました。そうした文化活動の中で、徳川家との深刻な不協和音が発生してしまったのが、次回のドラマで取り上げられるであろう「方広寺鐘銘事件」ですね。