吉本興業の社員だった谷は、当時44歳。ミスター吉本・木村政雄常務の命令は絶対だった。

「当時は制作営業総務室っていう大阪本社の部署で、まとめ役というか、デスクのような仕事をしていました。そのころですね、木村さんから『漫才プロジェクトを作れ、おまえがプロジェクトリーダーだ』と。しかもメンバーは『おまえひとりや』と言うんです。どういうプロジェクトかというと、売れてる漫才師にはマネージャーがついてますけど、CMはCM、テレビはテレビの制作部署、営業は営業、劇場は劇場、それぞればらばらに展開してるわけです。それを、漫才という括りで縦断して、漫才を盛り上げろと。当時、漫才がむちゃくちゃ低迷してたんで」

 ゴールデン帯のテレビ番組が軒並み30%前後の視聴率を記録していた時代だ。当然、吉本もテレビタレントの育成に力を入れている。

「芸人のほうも、あんまり漫才に力を入れてないんちゃうかと思ってたんです。そこで、まずやったのは、劇場を見に行くこと。なんばグランド花月(NGK)には、ベテランさんから中堅までが出てるんですが、漫才はあんまり盛り上がってないな、と感じて。次にNGKの向かいにbaseよしもとっていう若手の劇場があって、たぶんダメやろなって思って見に行ったんですけど、意外と面白い漫才師がいてですね、これはいいかもしれないと」