リッチランドは第二次世界大戦から冷戦時代にかけてハンフォード・サイトの恩恵を受けて発展し、原子力の町を自認してきた。そのため商店の看板など、町の至る所に原子力や原爆のモチーフが取り入れられており、古賀さんが通っていた高校のロゴマークにも巨大なキノコ雲が描かれている。

勝者側の歴史とはいえ、日本で教育を受けた人間なら複雑な感情を抱くであろう状況に、古賀さんは声を上げた。ただし、ロゴマークの廃止などを求めるのではなく「私はみなさんの歴史や文化、視点について学んできました。今回は私の(視点)を知ってほしい」「キノコ雲の下にいたのは兵士ではなく一般市民です。罪なき人々の命を奪うことに、誇りを感じるべきでしょうか」と、あくまで個人の物の見方として訴えかけたのだ。その行動は現地でも称えられ「あのスピーチがなければ日本側の意見は一生知ることがなかった」などと反響が寄せられたという。

「米国でキノコ雲のイメージは、未曾有の破壊力とそれを成し遂げた人々への敬意を示すポップなアイコンとして定着しているようですね。それが地域の誇りになっているという点も、さほど不思議ではありません。戦後の米国では、軍の高官たちが核実験の成功を祝ってキノコ雲のケーキを作ったこともあります。核開発は米国の、大国としてのパワーを示すもので、キノコ雲はその象徴だったわけです。一方でそこに欠落しているのは、日本人の留学生が述べているように死者の存在や、放射線による後遺症です。(キノコ雲のような)特定のイメージが何を表しているか、というよりも、何を排除しているのかを思わせますね」

そう語るのは、『核と日本人――ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』(中公新書)などの著作がある、神戸市外国語大学の山本昭宏准教授。このように日本では語られることのない、原爆を“成功体験”とする勝者の歴史。本稿では、戦後の米国における「原子力の安全神話」や一般市民との関わり、そして、そこから生まれた衝撃的な大衆文化に触れつつ、米国のアトミック・カルチャーに迫る。