この結末を当時の宮崎監督は悔いていて、漫画版で納得のいく結末にしているが、それでも満足できずに10数年をかけて『もののけ姫』でやり直している。

 アシタカは自然の神々と人間が共存すればいいと理想を述べるが、自然を破壊し、生きるために神すらも殺そうとする人間の暴力の前にはちっぽけな理想など吹き飛ぶ。森林を切り取る人間に犬神達が牙を剝くと、その怒りを鎮めようとして人間たちはいけにえを投げ込む。それが人に捨てられた少女サンだ。

 生きるためと称して他人の犠牲を強いる、獣にも劣る人間と神々がどうして共存できるのか。『ナウシカ』のような犠牲を払っても奇跡は起きない。犠牲では何も救われない。新たな犠牲と憎しみが生まれるだけだ。

 シシ神は首を取られ、デイダラボッチと化してあらゆる生命を吸い取る呪いをまき散らす。アシタカとサンによって首は取り戻されるが、シシ神はそのまま消滅、最後の力で風を巻き起こすと一度死に瀕した大地は再び生を取り戻す。生と死の再生産が行われる。自然を破壊した人間たちが長い時間をかけて山の自然を取り戻したように、循環の中で人間は生きているのだ。