ところが、映画を観始めるとおかしなことに気づく。ソフィ不在で父カラムだけが登場するシーンがいくつもあるのだ。ソフィが部屋で寝ている時にバルコニーでタバコを吸うカラム。ひとりで絨毯を買うカラム。単身、夜の海に消えて行くカラム。ソフィの回想であるはずなのに、なぜソフィのいない場面が存在するのか?

 その理由は、カラムだけが登場するシーンはすべてソフィの「脳内補完」、あるいは「思い出補正」パートだからだ。

 父は、私のいない所でこんなことをしていたのではないだろうか。こう悩んでいたのではないだろうか。そんなふうに、大人になったソフィが父の姿を想像によって描き直したのが『アフターサン』という映画の真骨頂である。ソフィは記憶をそのまま再生したのではない。足りない箇所を自分なりの想像で補ったのだ。

 11歳の少女には察知できていなかった父の胸の内を、20年越しに理解しようとする。それが、「父と同じ年齢になった彼女の視点で綴る」の意味だ。本作は、口当たりの良いノスタルジーを売りにした、単なる思い出の記録集ではない。