浩平はフリーの助監督として仕事を受けてきたが、稼ぎは不安定だ。同棲する香織のバイトの収入によって生活は支えられている。慎ましき清貧生活。しかも、浩平が助監督として働いているうちはまだマシであるという、映画業界のシビアすぎる現実がある。もし、浩平が映画監督になれたとしても、年に何本かの仕事を請け負うことができる助監督時代より収入は減ってしまうのだ。映画監督になるという夢を叶えると、今よりさらに厳しい経済状況に陥ってしまう。
髙橋「劇中に『映画監督の99%は貧乏だ』という台詞がありますが、まさにそのとおりです(笑)。僕らの世代(髙橋監督は1967年生まれ)は撮影所システムがかろうじて残っていた時代で、がんばって助監督を続けていれば、40歳前後で映画監督になれるという甘い夢がありました。でも、冷静に考えると監督は増えていく一方で、下の世代へのチャンスはそうそう回ってこないのが現実です。助監督を続けていればいつか監督になれるという幻想に、僕らの世代はどこか甘えていた部分があったかもしれません」
役者たちの多くは本業では食べていけず、日雇いバイトをしている実情が西村洋介監督の自主映画『ヘルメットワルツ』(22)では描かれていたが、映画監督も同じような状況だ。著名な映画監督は大学の講師などを務めることもできるが、映画とはまったく無関係の仕事に従事しているケースも少なくない。東映映画『ワルボロ』(07)でデビューした隅田靖監督は、監督第2作『子どもたちをよろしく』(19)の公開時に警備会社で働いていることを明かしている。
髙橋「僕も30代の頃は食べていけずに、警備員のアルバイトなどをしていました。他の監督たちも口にしないだけで、似たような状況のはずです。しかも、年齢を重ねれば重ねるほど転職は難しくなる。20代前半で見切りをつけて、まったく別の業種に転職したヤツが正解なんじゃないかと思っていました。監督になったら助監督はやらないという先輩もいましたが、僕は今も助監督をやらせてもらっています。現場から学ぶことは多いですから」