さて、最初は、私の青春時代のことだ。あの頃は、赤坂や六本木という町が輝いて見えた。
西田佐知子の『赤坂の夜は更けて』が大ヒットしていた。六本木は点々としか店はなかったが芸能人御用達のようなお洒落な店があった。
『最後の20セント』という絨毯バーには大橋巨泉がよく来ていた。
その少し前になるが、若くてカッコよくてちょっと不良っぽい男と女が集う「野獣会」という集団があった。
そこには加賀まりこや大原麗子がいて、夜な夜な、ハーレーのような大型バイクを連ねて六本木の夜を駆け抜けていると報じられていた。
私には遠い世界だったから、その現場を見たことはなかったが、飯倉のイタリアン『キャンティ』がたまり場だといわれていた。
一種の都市伝説のようなものだろうが、その当時『野獣会』の主要メンバーだった歌手の田辺靖雄(78)が、その当時の「真実」を新潮で語っている。
田辺がいうには、その頃の会の連絡先は新宿の四谷警察署近くの安アパートで、メンバーが集まると現在赤坂エクセルホテル東急が建っているところにあった『シャンゼリゼ』という日本初のオープンカフェに移動したという。
あったあった。私も何度か入ったことがある。
田辺がいうには、会の中心は赤坂で、『キャンティ』に集まった六本木族とは違うのだそうだ。
加賀まりこはこの会ではなく六本木族で、野獣会を「田舎者」といっていたという。
カフェに集まっている中から、田辺や峰岸徹がスカウトされ、この会の後ろ盾になっていたナベプロの渡邊美佐のところいったん所属したという。
今一人の「飼育係」はすぎやまこういちだったそうだ。大原麗子は田辺の引きで会に入って、女優の道へと進んだという。
この会を本当に仕切っていたのは「秋本まさみ」という女性だったそうだが、この女性の経歴やその後どうしたのか、誰も知らないそうだ。『野獣会』は数年しか存在しなかったというが、我々世代には懐かしい憧れの集団であった。
さて、市川猿之助が今後どうなるのか? 新潮によると、警視庁捜査一課は、自殺幇助容疑で逮捕すべきだと捜査を進めているが、東京地検が「捜査には慎重を期すように」と指示を出し、細かい点について注文を付けているそうだ。
使われたベンゾジアゼピンという向精神薬は1万錠でようやく死に至るといわれるそうで、それほど大量に猿之助の両親が飲んだはずはなく、両親にビニール袋を被せたと猿之助がいっているとすれば、そのビニール袋を捨てたのは何のためなのか?
その経緯を自白させなければ、逮捕起訴しても、公判維持できないというのが検察の考え方なのだろうか。
現在、精神病院に隔離して、猿之助の精神状態が落ち着くのを待っているようだが、彼が、当時の状況をペラペラしゃべるようになるとは考えにくいのではないか。
歌舞伎界を大きく揺るがしている不可解な心中事件は、猿之助の心の中にそっとしまわれたまま、未解決になるような気がするのだが。