「みんな家庭とかできてそうなると思うんですけど、友だちの家で朝までダラダラする時間ってもうなくなってくるでしょ? 思い返すと、結局あれって一番楽しかったみたいな。その願望が今でも残ってるのかも」
友だちの家で深夜までずっとしゃべる。何が起こるわけでもない。が、ずっと笑っている。その時間が一番面白かったという記憶と、そんな楽しい時間に戻りたいという願望が、脚本の会話劇に反映されているのではないか。バカリズムはそう自己分析する。『ブラッシュアップライフ』では会話劇の面白さがしばしば指摘されたけれど、なるほど、何も起こらないけれど楽しかった時間への郷愁みたいなものが、視聴者と共振したのかもしれない。
バカリズムのネタにはパッケージ感がある。世界観、構成、演出、演技など、さまざまな要素が美しく組み上がっている感。単独ライブになるとなおさらだ。その漏れのないパッケージのなかで、私たちは安心して笑う。あるいは、そのパッケージの見事さに笑ってしまったりもする。それはおそらく、Aマッソ・加納が言っていたような、バカリズムという人を他人に渡すための2倍の作業を、やっている結果なのだろう。
加えて、上で引用した会話劇についての説明のように、バカリズムは自身のお笑いやそれ以外の仕事についても、その背景を結構自分でしゃべっている。論理的かつ説得的に。それもまた、バカリズムという存在、その人となりを見る者に渡すための、2倍の作業の一環なのだろう。その作業が、バカリズムの多岐にわたる作品をより楽しむための文脈を形作っていく。
バカリズムは私たちに、完璧にパッケージ化された作品を渡す。それだけではない。その作品を生み出す自分自身についても、見事に整理された形にパッケージ化して渡すのだ。
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