となれば、武田方の影がちらつく大岡弥四郎事件において、築山殿の積極的な関与が疑われるのも必然でしょう。信康のあずかり知らぬところで、築山殿は勝頼と内通し、信康を盛り立てるために弥四郎たちを動かした“黒幕”だった……との想像も働きます。実際、山岡荘八による『徳川家康』などの昭和の歴史小説の中では、築山殿は大岡弥四郎と男女の関係にあり、弥四郎が処刑された後も彼の遺志を実現しようと武田に味方し、家康を討ち取らんとする執念を燃やしていたという設定も見られますね。
築山殿が本当に大岡弥四郎事件に関与していたのか、武田と内通していたのか、その真偽は不明です。しかし、この事件がよくある家臣の謀反事件として片づけられないのは、事件の翌年の天正4年(1576年)ごろから、信康が暴力的かつ残虐な人物になっていったという記述が『当代記』などの史料に見られることです。この信康の変化と大岡弥四郎事件に何らかの関係があったのではないかとの疑いが生まれるわけです。
もっとも、信康が完全に“不良化”したとは考えにくいところもあります。たとえば、於万の方が産んだ異母弟・於義丸に見せた愛情深さです。於義丸(後の結城秀康)が生まれたのは天正2年(1574年)2月8日でした。その後のおよそ3年もの間、家康が於義丸とまともに対面もしなかったことは前回も書きましたが、信康は家康に自分の子と顔を合わせるよう熱心に説得したという逸話があるのです。この逸話が事実ならば、家康と於義丸の対面が叶ったのは天正5年(1577年)ごろということになり、その前年・天正4年ごろから、気に入らない農民を矢で射殺してしまうような残虐さが見られたとする『当代記』などの「問題児」信康の像とは相反する印象を抱かせるのです。
しかし、こう考えることもできるのではないでしょうか。史実の家康と築山殿は、長年別居するほど、その関係は冷え込んでいたとみられます。夫に捨てられた正室である築山殿は、家中における自身の立場を改善するべく、家康ではなく勝頼を頼り、大岡弥四郎に謀反を計画させました。愛する信康を、家康などに任せていられないという気持ちもあったかもしれません。その計画は失敗に終わり、事件後は夫婦仲がますます悪くなったことで、当時10代後半だった信康は、母・築山殿への同情を深めるとともに、父・家康に対して不信感を抱くようになっていったのではないでしょうか。もしかしたら、信康は母・築山殿と父・家康の間に立って、なんとか両親の復縁を取り持とうとしていたかもしれません。しかしその努力も実らず、むしろそれが家康からの信康の評価を悪化させていき、信康も家康に対して反抗的となっていき、『当代記』などで暴力的な問題児として描写されるに至ったのでは……などと考えられそうです。