「大岡弥四郎事件」、あるいは大岡弥四郎という名前自体が耳慣れないという読者も多いと思われます。この事件は簡単に要約すると、家康の嫡男である松平信康に仕える家臣・大岡弥四郎が岡崎城内で謀反を計画するも、露見して処刑されたというものです。

 しかし江戸時代に書かれた史書の中で、弥四郎の情報はなぜか錯綜しており、『東照宮御実記(以下、御実紀)』や『三河物語』などでは、「大賀弥四郎」という名前で登場しているほどです。弥四郎は、徳川家の譜代の家臣として江戸以降も続いた「大岡家」の出身とする見方がありますが、おそらく『御実紀』などの書き手には、弥四郎と大岡家を結びつけたくないという意思があったのでしょう。

 弥四郎の経歴や役職、謀反から処刑までの経緯に至っては、史料の数だけ説があるという状態です。たとえば『御実紀』では、弥四郎は低い身分から算段(=経理)の才能を買われて家康・信康父子の双方に仕えるほどに成り上がったとある一方、『三河物語』では信康のもとで町奉行などの大役を兼任していたとされています。どちらの史料でも、武田勝頼との内通を理由に弥四郎は処刑されてしまうのですが、『御実紀』の弥四郎は増長ぶりが激しく、とある武士の昇進にまつわるトラブルがきっかけとなって家康が身辺調査をさせたところ、勝頼と内通している書状が発見されてしまいます。一方、『三河物語』においては、弥四郎は信康の他の重臣たちと共に武田と内通しており、武田軍を岡崎城に引き込むための具体的な計画まで立てていたものの、「裏切り者」が出たせいで捕縛され、弥四郎本人だけでなく、彼の家族も残酷な方法で処刑されたという話になっています。

 『三河物語』や『岡崎東泉記』においては、家康を見限って代わりに信康を盛り立てようとした弥四郎(たち)の計画を失敗させた「裏切り者」が出てくるわけですが、この家康から見れば「功臣」となる人物が、山田重英という武将です。家康の特別なはからいで、重英には500石もの加増があったという記録もありますから、重英の翻意によって弥四郎の計画が土壇場で失敗したのは事実なのでしょう。しかし不思議なことに『御実紀』はなぜか山田重英の功績について触れていません。