その理由として考えられるのは、『御実紀』が徳川家の公式史であるからでしょう。一枚岩であるべき「神君」家康の家臣団が、三方ヶ原の戦いで惨敗してしまった後に内部分裂していたという事実を認めたくなかったのかもしれません。しかし、史料によって内容が微妙に異なること自体は珍しくありませんが、弥四郎の名前からその処刑の顛末に至るまで異なるのは、さすがによくあることとはいえず、これは何か重要な真実を江戸時代の歴史家たちが隠そうとした証しのようにも思われます。
そして歴史家たちが隠そうとしたのは、内部分裂を引き起こした主君と家臣の軋轢だけでなく、家康と信康、築山殿との確執が後世において問題視されたことと関係しているのかもしれません。
ここで改めて確認しておきたいのは、天正3年(1575年)の大岡弥四郎事件当時、信康はまだ数え歳17歳の青年だったということです。彼は、同年5月の長篠の戦いで初陣を飾ったばかりでした。この時の信康が武田軍に対して勇猛果敢な戦いぶりを見せたことは諸書が認めています。それゆえ、少なくともこの初陣の時点では、信康は、弥四郎たちのようには武田派ではなかったことがわかります。それはつまり、弥四郎たち重臣たちが、信康を武田派に引き入れようと具体的に試みてはいなかったことも意味しているでしょう。信康は重臣の弥四郎が処刑されたことについて、「父・家康への裏切りゆえに、彼は殺されたのだ」と理解し、素直に納得できたと思われます。
先ほどの「信康を三河の国主に据える」という武田勝頼の提案に築山殿が乗り気だったという『岡崎東泉記』の記述と合わせて考えると、岡崎城における武田方の中心人物は、築山殿であったと見ることができます。築山殿が武田方の間者である滅敬(めっけい)という唐人医師と不義密通の関係だったという説が『岡崎東泉記』や『松平記』などには見られるのですが、『石川正西見聞集』にはさらに踏み込んで、築山殿が、夫・家康を殺してくれたら勝頼に身を捧げると希望していたとの面妖な記述まで出てきます。