天正3年(1575年)、信康はまだ17歳でしたが、「長篠の戦い」で武功をあげるなど武将としての才覚をすでに発揮していました。しかし、その一方で、彼には暴力的で残酷な傾向もありました。江戸時代前期に成立した『当代記』が信康の問題行動について書き記すようになったのは、天正4年(1576年)以降のことです。

 岡崎城城主となった信康は、踊りの見物を好み、近隣の村人たちを集めては当地で流行している踊りを披露させていました。しかし、踊り手の服装が貧相とか、踊りが下手だと感じた際に面白半分で射殺してしまうことがあったそうです。家臣たちから非難されると、「敵の間者だから殺した」などと苦しい言い訳をしたそうですが、信康の異常な行動を知った家康は「悪いことをしているとは思ったが、あえて注意しなかった」と、なぜか具体的な処罰を行いませんでした。それゆえ、この事件はフィクションだと考える学者もいます。事実であれば、さすがに信康が廃嫡されても仕方のない所業でしょうから。

 しかし一方で、このようにも考えられます。信康の正室は、信長の娘の五徳姫であり、彼らの結婚生活は、織田・徳川両家の「清洲同盟」の象徴でした。信康を断罪し、嫡男から降格させることは、その正室・五徳姫のステイタスをも落とすことであり、それゆえに家康は信康に罰を与えられなかった可能性もあるのではないでしょうか。

 また、信康の問題行動については、『当代記』より50年ほど後に成立したと考えられる『松平記』にも記されています。こちらでは、信康の粗暴さや非情さが原因で五徳姫との夫婦仲が悪化していたことに加え、信康との間に授かった子が二人とも娘だったことについて、信康だけでなく築山殿までも「女の子なんて要らない」と五徳姫に怒り、姫の感情を害したという話が載っています。