築山殿は、於万の方が家康の子を宿していることを知ると、「於万は夫の側室として認められない」という意思を明確にしました。正室が関係を公認しないかぎり、当主の男性は側室を持つことが許されないのが当時の習わしです。於万は築山殿の侍女の職を解かれ、岡崎城からも追放されてしまったのですが、こうした築山殿の反応からは、家康と於万が男女の関係になっていることに、於万が懐妊するまで築山殿はまったく気づかなかったのかもしれない、と思わせられます。

 この時期の有名な逸話ですが、家康と親密になり、彼の子を妊娠するという於万の方の“裏切り”に怒りを抑えられない築山殿が、「ある夜、おまん殿をあかはだか(=赤裸)にして縄もていましめ、浜松の城の木深き所にすてさせられし」ことがあったそうです。この文章は、信憑性が高い史料とされることの多い『以貴小伝』からの引用ですが、於万が妊婦であるにもかかわらず、裸にして縄で縛り、浜松城内の木が生い茂っているところに放置した(もしくは、折檻も加えた)という逸話の真否はともかく、築山殿と於万の方の関係が一気に悪化したことは真実であろうと思われます。

 この日、城で宿直役をしていた本多(作左衛門)重次がどこかから聞こえてくる女の泣き声を聞きつけ、縛られた於万の方を発見し、自邸に連れ帰って命を救いました。その後、家康に事件を報告すると、「そのまま於万の面倒を見るように」という主命が下りましたが、築山殿の怒りは冷めず、そのまま於万は「城外有富村といふ所にて御子をうめり。これすなはち於義丸殿にておはす」(『以貴小伝』)と、於義丸(=後の結城秀康)を城外で出産することになりました。於万の方が出産した場所は、本多重次に紹介された浜松城にほど近い宇布見の代官・中村家の屋敷だったともいわれています。

 『柳営婦女伝系』などには、このとき於万が出産したのは双子であり、その1人が於義丸で、もう1人の男子はその場で亡くなってしまったとの記述もあります。双子は当時、「畜生腹」と呼ばれ、忌み嫌われたと説明されがちですが、実は歴史的な裏付けが薄い説だったりします。男の双子は後々の相続関係が複雑になりうるといった問題が生まれるので、片方は養子に出されたり、ひどい場合は殺されることもあったようですが、於万の方の双子も当時の慣習に従い、於義丸の弟は公には亡くなったことにして別の場所で育てられたと考えられ、それが後の永見貞愛(さだちか)という人物だとみられています。