──指導者のラジニーシにも会いましたか?

いしだ:目の前を通り過ぎただけですけどね。パレードがあって、彼が車に乗って通り過ぎるのを、僕らは沿道から見ていたっていう。あとに、僕は「スワミ・プレム・ラジ」という洗礼名をもらいましたけど、それもただ通知が来るだけでした。身内からは「ラジ」と呼ばれるようになっても、それでなにか特段、僕の意識が変わったっていうことはなかったですね。そのあたりのカルチャーに多少影響を受けつつ、そこまでのめり込みはしなかったんです。

──昨年出版された自伝『未中年~栄光と転落、再生への挑戦~』(大洋図書)では、「伯父の星川淳は翻訳家でもあって、バグワン・シュリ・ラジニーシ氏の著作を多数、梵語から和訳している」と書かれていました。

いしだ:そうですね。母も伯父からはけっこう影響を受けてて、ヒッピーカルチャーに熱心でしたね。僕がオレゴン旅行からしばらくして、伯父のいる屋久島で暮らしたのも、それからしばらくして中央線沿いにベジタリアンのレストラン開いたりしたのもの、そういう活動の一環だったとは思います。

──それにしても、女手一つでいしださんを育てたお母様もすごいです。

いしだ:そうですね。母はいつも忙しくしていて、日中はAV機器のショップに勤めて、夜はピアノを弾いたりしていました。だから普段はほとんど会えなくて寂しかったですね。でも、父親代わりといいますか、いろんな大人が常に近くにいてくれたなとは思いますね。母も恋多き女性でしたから(苦笑)。