――神経症で入院されてからはどのように過ごしていたのですか。

馬渡:東京の病院に入院しました。そこでの娯楽は火曜日の夜に放送される歌番組なんですよ。そこで聴こえてきたのは岡本真夜さん、SPEEDさんの曲。それを観ながら「自分は何だったんだろう?」と考えるばかりでしたね。投薬治療の副作用で舌の筋肉が緩んだことによって歌も歌えなくなり、もう東京で仕事はできない。生きる意味を失った気持ちでした。これで「もう宮崎に帰りましょう」と。

 その後は地元・宮崎県三股町で、母と昆布巻きの内職をしてました。ここで「夢がない」、「先が見えない」ということは魂が抜けることだなと思い知りましたね。自殺未遂をして、母に止められたことも数知れず。でも、そんなある日、ある楽器店の方が「うちでボイストレーナーをやってみませんか?」と声をかけてくれて、引き受けることにしたんです。

 最初の生徒はひとりだけ。私も満身創痍で声は出ませんでしたが、伴奏をすることで、だんだんと生徒たちとコミュニケーションをとれるようになっていきました。

――音楽とはずっとつながり続けていたんですね。その後、2011年のフェス「Anime Japan FES~夏の陣~」での復帰は、なぜ決心されたのですか。

馬渡:影山ヒロノブさんから熱烈に誘っていただいたのですが、声も出ないこともあってオファーを3年ほど断り続けていました。でも、その時期にある人と出会って、その人が私のマネージャーになると申し出てくれたんです。声もまったく出ないのに再起を決心できたのは、そのマネージャーのおかげ。今でも感謝しています。

 復帰後は、まったく歌えない自分を見て、「残念だ」という人もいましたが、決めた以上はやるしかありません。今でも忘れられないのが、最後の名古屋・Zepp Nagoya。曲間のステージドリンクをマネージャーが持ってきてくれたんです。彼は素人ですから、手を震わせながらステージに上がってくれて。その気持ちがうれしかった。その後から出演のオファーが来るようになったんですね。

 それから弾き語りの現場などで歌わせてもらいましたが、皆さんが感動してくれるのは私の歌がうまいからでも懐かしいからでもなく、声が出なくても一生懸命歌う姿でした。東日本大震災の時に東北でパフォーマンスした際も「馬渡さんの気持ちはわかりました。俺たちも頑張ります」と言ってもらえました。2015年の【Anime Friends】(ブラジルで開かれた10万人規模のアニメイベント)もそうでしたね。「生き方」で共感してもらえたのかなと。歌の力ってすごい。