――その後、1996年にMSアーティストを退社、自身のレーベル「Pit’a Patレーベル」を設立し、ご病気を患ったと。

馬渡:3rdアルバム『AMACHAN』(1994年)は、ニューヨークでプリンスファミリーのエンジニア、スーザン・ロジャースと一緒に制作した一番気に入っている作品です。やりたいことはやれましたが、こちらも売り上げにはつながらず。結局売れたのはタイアップの曲だけで「馬渡の音楽は前衛的」だと言われることもありましたね。私はひとりぼっちの人に向けて作品を作っていたつもりだったのですが、もしかしたら自分を慰めたかっただけかもしれません。

 結局ディレクターさんも担当を降り、後任もなし。エッセイやラジオ、プロモーション、制作など、今まであったいろいろな仕事も一気になくなって。それから事務所が新しいレコード会社を探してくれるなかで焦ってしまったんですよ。なぜか待てなかった。それを機に、自分でインディーズレーベルの運営を始めたんです。若いファンの方々が「馬渡、頑張れ!」と応援してくれて、それで私も頑張りました。でも挨拶もなしに事務所を辞めてしまったことで誰からも見向きもしてもらえなかったですし、多くの業務をひとりで抱えたのも今考えれば、あまりに無謀でしたね。

 それから突然、ちょっとした物音が否定的に聞こえるようになったんです。電車の「ガタンガタン」という音が「死ね死ね」に聴こえる。物音に敏感になり、いつも「何かやらないと!」という強迫観念に追われて眠れなくなりました。

 限界が訪れたのは、29歳頃にツアーで大阪を訪れた時のこと。ドアが閉じた音も「死ね」と聞こえるので、トイレにも行けなくなって。ライブハウスの人に「馬渡さん、何がきついんですか?」と声をかけられても、何がつらいのかも説明できない。

 結局、その後の京都と滋賀の公演もキャンセル。そのまま保健所に連れていかれて入院を勧められました。「もう、殺してくれ!」と言ったら、お医者さんに「じゃあ死ねば?」と返されたことも覚えています。