主役は母親なのか?
1952年、スピルバーグを投影した幼いサミー・フェイブルマン少年は、両親と映画館で観た『地上最大のショウ』に感銘を受け、その後8ミリカメラに夢中になる。ここまでは観客の期待どおりだ。しかしその後の展開が、なんだかとても、なんというか、なだらかなのである。なかなか大事件は起きない。フェイブルマン一家の素朴な家族ドラマが丹念に、スローリーに描かれる。のちのスピルバーグ有名作の“着想のヒント”になりうるような事件がサミー少年にわかりやすく降りかかる――といったシーンはない。
世界的映画監督の自伝的作品と謳っているのであれば、後に発露するスピルバーグの作家性を明示的に予見するような――映画ファンがニヤリとするような――作りであってもよかったのではないか。むしろそこを太くなぞるのが、この種の映画の正攻法だろう。
しかしスピルバーグは、本作をそういう作りにはしなかった。
特に気になるのは、母親ミッツィ(演:ミシェル・ウィリアムズ)まわりの尺の割き方だ。少なくとも冒頭からしばらくの間は、サミーよりミッツィのほうにずっと描写のウエイトを置いている。ミシェル・ウィリアムズ主演映画では? と思うほどに、音楽家でピアニストであるミッツィの内面描写が目立つ。50年代アメリカ女性の生き様(抑圧)を描いた社会派文芸映画、としても成立しそうな勢いだ。
大きな事件も劇的な展開もないまま、奥歯に物の挟まったような家族ドラマが粛々と展開する。スピルバーグはいったい何を撮ろうとしているのか? ヒットメーカーもキャリアが終盤が近づくと、こういう感じのゆったりした語りになるのか? これ、全10話のホームドラマでもよくない?
などと油断した矢先、今までのホンワカ展開をすべてひっくり返す、大変なことが起こる。なぜこんなにも母親の描写に尺を割いていたかが、ようやく判明するのだ。