当時、フライデーとフォーカスを合わせた部数は400万部といわれた。それがこの事件を機に部数を支えてきた女性読者が離れ、部数が激減し、私がフライデー編集長になった1990年には60万部を切るところまで落ち込んでしまっていた。
ケガを負った編集部員が異動になり、昼から酒が離せなくなって亡くなるということもあった。事件の後遺症はフライデー側のほうが大きかったと思う。
たけしのほうは自粛していたテレビに復帰し、1991年にNHKが実施した「タレント好感度調査」では男性タレント部門でNo.1になった。
講談社全体にたけしをタブー視する空気があった。それを打破するために私は、1991年に「たけしが愛人と1歳の子ども(顔はわからないように処理)と散歩する写真」(2/15日号)をフライデーに掲載した。
その後、大橋巨泉の紹介でたけしに会い、和解しようと持ち掛け、彼も承諾してくれた。後日、詳細を話し合う予定だったが、彼がバイクで大事故を起こしたため、そのままになってしまった。
今週のフライデーが、たけし軍団が結成40年周年を迎えたのを機に、枝豆やダンカン、ガダルカナル・タカにインタビューして、たけし事件のことを語らせている。
タカ「『みんなちょっとメシ食うから集まれ』みたいな話があって、たけしさんから『こういうことだから』って説明を聞いたときに、やり方が酷いなと、ガマンできないぐらいの憤りを感じました」
ダンカン「あの頃の写真週刊誌はなんでもありみたいなところがあって、度を超えちゃったんですよね」
タカ「手を出してしまったのは申しわけないけど、編集部側もある部分では挑発的だったんです。『文句あるなら来いよ』って言われたら、たけしさんや我々の気性からすると行くじゃないですか。それでこちらが殴り込んできたら記事にしてやろうというぐらいの意図はあったと思います。でも想像以上に我々が暴れた」
枝豆は、連絡がつかず参加していなかった。だが、テレビを見ていて憤り、自分だけでも講談社に乗り込もうと武器を探しているところに、たけしから電話があったという。
「お前の面倒は一生見るから勘弁してくれ。今は動かないでくれ」といわれ、やめたという。
たしかに、翌日、また軍団の人間が講談社に殴り込みに来たら、世論は厳しいものになっていたに違いない。
ダンカン「火に油を注いで大炎上だよね」
枝豆「僕はもちろん終わりだし、たけしさんもダメになっていたかもしれない」
タカ「さすがに出版社に殴り込むのはマズい。もう仕事はないなって思いましたけど、当時の後藤田正晴官房長官が国会で『ビート君の気持ちもよくわかる』と発言するなど、同情的な声も多かった。一番大事な瞬間に奇跡的に電話がつながるというのも、たけしさんがそういう奇跡を生み出すエネルギーを持っていたんじゃないかなって考えてしまいますね」
売れっ子芸人が女子大生の愛人をつくって子どもまでいたというのは、決して美談ではない。取材が度を越さず、単なる傷害事件で終わらせ、講談社側が言論の自由を持ち出さなければ、フライデーを含めた写真週刊誌があそこまで落ち込むことはなかったのではないか。
現在、フライデーは約6万部、FLASHは3万7000部である(共に2022年1月~6月までのABC公査部数)。