◆歌人の心を持つ貴司に詠んであげたいこの一首
翌日、貴司の姿は再び海にあった。舞と久留美の隣で浜辺に立ち、今度は真っ直ぐ海へ視線を投げかける貴司は、「ほんまの自分のまま生きていける場所」を探すという。それはきっとどこかにはあるかもしれないが、探しだすには一生かかるかもしれない。根っからの哲学者であり、文学をこよなく愛する彼は、それでも探すだろう。
「デラシネ」の主人・八木巌(又吉直樹)のすすめで短歌に打ち込み始めた貴司は、スーツ姿で砂浜に座り込んで手帳を広げ、自作の短歌をふたりに見せる。手帳には「星たちの 光あつめて 見えてきたこの道をいく 明日の僕は」とあり、五島で見つけた星空の美しさに感動した心境が鮮やかに詠み込まれている。穢れ(けがれ)のない貴司を見ているとたまらない気持ちになる。それで筆者はこの愛すべき文学青年にこの一首を読んであげたいと思った。
「起き抜けの窓にひらける白銀の岬ぞ頬を打たるるごとし」(増谷龍三歌集『北の創世記』より)
これは前衛短歌の歌人として有名な増谷龍三による海の迫力を詠った一首だが、海を前にした人の嘘偽りのない感情は貴司が抱いたものと同じ。普遍的な心象風景を表現するには短歌は最適である。すでに歌人の心を持つ貴司が「その場所」で詠む一首は、現代を代表するものになるかもしれない。