京都方の敗北が確定したあと、後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇の流罪が決定しました(朝廷における天皇の定員は一人ですが、上皇は同時に何人存在してもよいというルールがあります)。土御門上皇は反戦派でしたが、後鳥羽上皇たちを止められなかった責任を取り、自ら志願して流罪となりました。後鳥羽は隠岐島、土御門は土佐国(後に阿波国)、順徳は佐渡へ流され、数え年4歳の幼帝・仲恭天皇は流罪にはならなかったものの、強制退位という罰を受けています。
跡を継いだのは、後鳥羽上皇の同母兄でありながら不遇をかこってきた守貞親王の数多い皇子たちのうち、まだ出家しておらず、即位するにも問題事項がないと考えられた第三皇子・茂仁(ゆたひと)王です。彼が後堀河天皇として即位したことにより、当時すでに出家していた守貞親王は(天皇未経験者なのに)法皇となり、権力を握ることになりました。
とはいえ、乱の後の朝廷は、鎌倉幕府に対し、ひたすらに低姿勢とならざるをえませんでした。「自今(じこん)以後は武勇を携えるの輩(ともがら)は召し使うべからず」……つまり、朝廷は今後、武官を自分で集めたりしません、武力は完全放棄しますと宣言させられ、政(まつりごと)に関しても、すべて幕府に相談してから決めるとまで言わされているので、政体としてかなり無力化させられていることがわかります。
これ以降、天皇家と朝廷は「美徳」を体現する存在となるべく、生き残りをかけて改革を重ねました。具体的には朝廷の行政処理能力を活かし、土地のトラブルなどの訴訟ごとを取り仕切り、幕府に対して政策の立案を行ったりするようになりました。まぁ、その案を採用するかどうかの決定権は幕府にあるわけですが……。このように、後鳥羽上皇が「義時を討て」と命じてしまったことがきっかけで、国の形は乱の前後で完全に変わってしまったのでした。
かくして「承久の乱」の絶対的勝者となった義時ですが、終戦の翌年にあたる貞応元年(1222年)の8月に陸奥守を、10月には右京権大夫と相次いで官職を返上し、政界から引退し始めました。史実の義時は、このころすでに「アラ還(=アラウンド還暦)」世代となっているのですが、肉体的にはまだまだ現役で、妻の伊賀の方は短期間のうちに相次いで義時の子を妊娠・出産しています。ドラマのように義時夫妻は不仲というわけでもなかったようですね。
しかし、そういう祝い事の直後、元仁元年(1224年)6月13日、『吾妻鏡』で義時の急死が語られているため、やはり異様に見える部分はあります。同書によれば、死因は「脚気衝心(=脚気が原因の心臓発作)」と「霍乱(=吐き下しをする胃腸病)」の合併症だったそうですが、やはり何かしらの“怪しさ”は感じられますね。京都の公家・藤原定家は、伊賀の方が義時を毒殺したらしいという噂を日記『明月記』に書き記しています。
12日に体調を崩した義時は、翌早朝、寅の刻(午前4時頃)には死を覚悟して落飾(出家)。同日巳の刻(午前10時頃)に亡くなりました。享年は62歳で、18日には壮大な葬儀が執り行われたそうです。
『吾妻鏡』によれば義時はこのようにこの世を去ったわけですが、『鎌倉殿』の最終回は「報いの時」というタイトルですから、鎌倉幕府のためとはいえ、罪業を重ねた報いを受け、義時は暗殺されるのでしょうか。『明月記』のとおりなら、義時を憎むのえが手を下す展開もありえそうですが……犯人となるべき者の顔が筆者には正直なところ思い浮かびません。その代わりというわけではないですが、数々の粛清事件など“闇”の部分を一身に引き受け、死んでいく主人公という意味で、義時が往年の名作アニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』のルルーシュと重なってしまう筆者ですが、『鎌倉殿』最終回については、機会をあらためてお話したいと思います。