北条家支持に傾いた大勢の坂東武者たちの思考を推理してみましょう。仮に院宣に従って義時を討ち取り、北条家を幕府の中枢から退かしたところで、京都のおエライ方が“お飾り”として送られてくるだけ。実質的な政治は、そういう“お飾り”のお役人の下で、三浦家など有力豪族たちが執ることになるでしょう。そうなれば、北条家がかつて行ってきたようにライバルを蹴落とす“バトルロワイヤル”が再び繰り返されるでしょうし、治安が今以上に乱れることは目に見えています。
逆に言えば、三浦義村にとっては北条家に取って代わるチャンスであったとも考えられます。しかし、ドラマでもそういう描写がありましたが、史実の義村も上皇からの院宣を見て、北条家支持をすぐさま示しました。義村ですら裏切らなかったように、他の多くの御家人たちも、幕府方について戦ったほうがよほど現実的な利益が大きいという損得勘定が働いたのではないかと筆者は考えます。
「承久の乱」において義時は鎌倉に残り、嫡男・泰時と異母弟・時房が率いる大軍を京都に向かわせました。泰時は父・義時の命を受け、総大将として鎌倉を出発するのですが、翌日、単独で引き返してきて、「もし、上皇や天皇が戦地に直接赴いてきていたら、どうしましょうか」という伺いを立てたそうです(『増鏡』)。義時はそういう場合、相手の兵も絶対に攻撃してはならない、兜を脱いで降伏しろなどと伝えています。事実だとすれば、いかに義時が頼られていたのかがわかる興味深い逸話ですね。ドラマの義時が自らの命を上皇に差し出して鎌倉を守ろうとしたのも、このあたりのエピソードからの影響を受けたのでしょうか。
「多勢に無勢」という言葉どおり、一説に19万騎に膨れ上がった幕府軍の前に上皇軍は敗戦続きでした。敗北を覚悟した上皇は保身のため、義時追討の院宣を取り消し、自分に味方してくれた藤原秀康や三浦胤義などを朝敵として討ち取るよう、新たな宣旨を出しました。『承久記(慈光寺本)』によると、御所に閉じこもった上皇は、「最後にお目にかかりたい」と謁見を求めてきた秀康や胤義、そして山田重忠という武士たちを追い返し、「何方(いずち)へも落行け」と言い放ったそうで、山田は閉じられたままの御所の門を叩いて悔しがったそうです。こうして胤義やその息子なども次々と戦死を遂げ、藤原秀康は幕府軍の捕虜となってしまいました。