承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬(やぶさめ)揃え」を口実に、諸国の武士たちを京都に集結させました。このとき集まったのは、鎌倉から京都に労役奉仕で出張中の「大番役」の武士たちや、上皇の私兵である西面、北面の武士たちなど、合計1700騎ほどでした。

 義時正室の伊賀の方(ドラマでは菊地凛子さん演じる「のえ」)の兄である伊賀光季は京都守護の職にあったにもかかわらず、上皇による招集命令に従わず、それを口実に800人から屋敷に攻め込まれ、戦死しています。ドラマでは、後鳥羽上皇の命を受けた三浦胤義(岸田タツヤさん)らの手で殺される展開になっており、のえが「兄は見殺しにされたのですか!」と義時に怒りを爆発させ、「許せませぬ…」と厳しい表情を浮かべていました。これはドラマの最終回で描かれるであろう、義時の死、そしてそれを受けて伊賀の方らがわが子・政村を次の執権の座に据えようとした「伊賀氏の変」への伏線なのではないでしょうか? 史実では結局、政村は7代執権となるので、この時、伊賀の方はヘタに動かないほうがよかった気もしますけれどね……。

 話を戻すと、伊賀光季が討ち死にする前に送った下人たちが鎌倉に到着して上皇の挙兵を伝え、さらに義時追討の院宣も鎌倉に届いたことが「承久の乱」の始まりとなり、上皇の挙兵に動揺する鎌倉武士たちの前で、政子の演説があったとされます。

 ちなみに、鎌倉に院宣をもたらした使者で、藤原秀康の従者だった押松丸が、ドラマでは源頼家に蹴鞠の師として仕えていた平知康(矢柴俊博さん)だったという設定は興味深いものでした。ドラマでは押松丸ではなく「押松」という名前に変わっていましたが、「押松丸」は主に元服前の男性に与えられる「童名」です。平知康と同一人物とするとさすがにその名前では不自然ですから、童名を象徴する「丸」の部分を消して、押松にしたのでしょう。

 それにしても、この時、上皇自ら鎌倉へ進軍しなかった点は興味深いです。この上皇の行動からは、院宣さえ出せば、鎌倉の武士たちは北条家を裏切り、京都方に寝返ると信じ切っていたことがうかがえるようです。これは自身の権威を過信した行為であったと筆者には思われます。

 神仏に等しい権威である上皇からの義時追討命令と、尼将軍からの説得の板挟みにあい、御家人たちの多くに葛藤があったであろうと思われますが、その点については残念ながら『吾妻鏡』では語られておらず、想像するしかありません。しかし京都方に寝返る御家人が結果的に少なかったのは、その権威とは別に、政治家としての上皇の実力を冷静に判断されてしまったのであろうと思われます。今回のような“有事”の時ですら自ら動こうとしなかった上皇に対し、「本当に東国の風土・文化を理解し、その治安を守る政治が行えるか」という疑問が御家人の間で生じてもおかしくありません。どちらにリーダーとしての資質があるか、坂東武者たちはシビアに評価したのでしょう。

 また、上皇による院宣には、義時追討命令だけでなく、自治体としての鎌倉幕府の根幹である諸国の守護・地頭の職を、「朝廷の監視下に置く」という文章もありました。守護・地頭には、任国の治安を守るべく軍を動かし、現在でいう警察のような仕事も行う権利が認められていましたし、なにより徴税業務も請け負っていました。それらの権利が朝廷にふたたび召し上げられるということは、これまでのように自分たちの領地を自分たちの手で治めるということが叶わなくなるのです。そもそも、関東において武士たちが力による支配を行っていたのは、平安時代を通じて朝廷による全国の治安維持能力が低かったからという現実もあります。坂東武者たちの多くが京都方につかなかった理由もうなずけるでしょう。