映画の原初的興奮をもたらす
「実在感」が強すぎて、ところどころ混乱するシーンがなかったわけではない。たとえば、徹頭徹尾フルCGで描かれているはずのナヴィが、「青いドーランを塗って特殊メイクをしている俳優」に見えて仕方がないアップのシーンがあったり、架空生物のハリボテ的な人工質感をCGが一生懸命再現しているように感じてしまったり。
ただそれも、参照すべき現実がないゆえにCGの「ゴール」もまた存在しないことの証しだ。それゆえ観客は、手近な現実である「青いドーランを塗った俳優」「ハリボテ」という類似物を暫定的なゴールに設定するしかなくなる。
「リアル」の正解が存在しない領域に挑戦し、その一応の答えとして「ドキュメンタリーテイスト」に到達したキャメロン。ただ、筆者友人のキャメロンファン某氏は前作『アバター』について、冗談交じりに「キャメロン作品の中でダントツに思い入れがない」と言っていた。おそらく今作にもそういう感想を抱くだろう。それはあらゆる意味で『アバターWoW』が従来型の劇映画を超越しており、ドキュメンタリー性の高いアトラクション映像としての性質を潔く強めたから――なのかもしれない。
アトラクション映像であることは、『アバターWoW』の映画的価値が低いことを意味しない。「映画の父」と言われるリュミエール兄弟が1896年に発表した『ラ・シオタ駅への列車の到着』という短編フィルムがある。これは蒸気機関車に牽引された列車が駅に到着するだけの50秒程度のドキュメンタリーだが、この「実在感」に観客は圧倒された。当時としては十分、見世物映像(アトラクション)として成立したからだ。
キャメロンの功績はこれに近いのではないか。映画というメディアが最初から持っていたドキュメンタリー的な「実在感」のダイナミズム、「その映像が記録されている事実自体がすごい」というプリミティブな衝撃を掘り起こしてくれた、という意味において。