しかし、同じくファンタジー映画にカテゴライズされる『アバターWoW』は、なんとその壁を超えてきた。HFRによる「実在感」が良い方向に働いたのだ。

 良い方向とは「ドキュメンタリーっぽさ」である。

 ドキュメンタリーとは、ある主題についての事実を記録して恣意的に編集を施した映像のこと。映画フォーマットに載った場合は「記録映画」などとも呼ばれる。

『アバターWoW』は圧倒的なファンタジーSF、100%の虚構でありながら、CGによる画面の作り込み密度・精度があまりにも高いため、そこで展開されている虚構世界の完成度が(おかしな言い方だが)現実世界の完成度に比肩するレベルにまで達してしまった。その結果、「虚構世界にビデオカメラを向けたドキュメンタリー」として成立してしまったのだ。いっそドキュメンタリーならば、「実在感」は高ければ高いほうがよい。

 本作はいわば、惑星パンドラという未知の世界に降り立ったカメラによる記録映像集だ。極論するなら、本作はファンタジーSFですらなく、「別の現実」の観察記でもある。したがって「ファンタジーなのに現実に引き戻される。白ける」という『ホビット』に抱いた感想は抱きようがない。これはこれで成立しているひとつの「現実」なのだから、「引き戻す」もなにもないのだ。

 とはいえ、「現実には存在しない世界のドキュメンタリー」とは、いかにも奇妙な言い回しだ。語義矛盾も甚だしい。そのことは、人間とは異なる骨格や肌の色をもつナヴィのビジュアルと挙動に、観客が思わず「リアルだ」と口にしてしまうことにも現れている。リアル(現実的)と言うからには参照すべき現実があるはずだが、当然ながらナヴィは現実に存在しない。

 この話で思い出すことがある。かつてスタンリー・キューブリックは『2001年宇宙の旅』(68)で、「科学的に定義された神」のビジュアル化を試みた(トチ狂っている)。誰ひとり(科学的な意味で)実際には見たことがないもののビジュアル化という意味では、『アバター』でキャメロンが試みたことも同じである。

 キューブリックが「科学的に定義された神」のビジュアル化に成功したかどうかについては、様々な意見があるだろう。だが、キャメロンは『アバターWoW』で明らかに成功した。しかも48fpsのドキュメンタリーテイストという「実在感」に援護射撃させることで、誰も見たことがないもののビジュアル化に恐ろしい説得力を与えたのだ。