公家や武士といった貴族層の“本名”である「諱(いみな)」は、その人の魂のような大事な存在で、それを侮辱するような物言いは非常に無礼なのですが、知康の指摘を真に受けた頼家が改名を要請すると、彼は躊躇も見せず、本当に「時連」から「時房」に改名してしまいました。このとき、知康が「時連」の名にケチを付けた瞬間を御簾の後ろから目撃した北条政子が本人に代わって(?)激怒し、「(平知康のような配慮の足りない人間は)頼家のそばに置かないで」と命じた記録が残されています(『吾妻鏡』)。史実の政子はこの手の命令を繰り返しすぎていたためか、この命令はあまり気に留められなかったようで、知康は結局その後も頼家の蹴鞠の会の常連でしたが……。

 時房が名を改めることにまったく抵抗がなかった可能性はないとは言い切れませんが、内心では政子のように気分を害していたものの、頼家の機嫌を損ねないよう素直に従った――そういうふうに受け取ることができるのではないでしょうか。

 また、実朝が暗殺された後、ドラマ同様に後鳥羽上皇は鎌倉に皇子を下向させることを渋りはじめました。史実の義時は、親王の関東下向計画をこれまで通り進めてほしいと要請するだけでなく、時房に千騎もの兵を率いて(京都に)上洛させ、武力を背景に脅迫するような姿勢まで見せました。しかし、当の時房はというと、脅すような姿勢は見せず、二カ月以上にわたって京都に滞在し、上皇の主催する蹴鞠の会に何度も参加して粘り強く交渉を続けたようです。

 こうした結果、初代鎌倉殿・源頼朝の血統を父方・母方ともに引く九条道家の三男である三寅(みとら、後の藤原頼経)を鎌倉に下向させることが決まりましたが、これもひとえに時房のコミュニケーション能力のたまものだったといえるでしょう。もっとも、このように上皇との絆が多少なりともあった時房ですが、「承久の乱」の際には義時の命を受け、泰時と共に京都方を攻撃する先鋒として活躍しています。これについてはドラマでも触れられるかもしれませんから、機会があれば、そのうちに……。

 一方、時房は、鎌倉殿の側近となってその本音を探るよう、北条時政が放ったスパイ的な存在だったという見方もあります。実際、頼家が暗殺された後も、時房は蹴鞠や歌道の才能でもって、実朝の側近の座に滑りこむことに成功しました。頼家の蹴鞠、そして実朝の歌道といえば、はた目からはやや異常なほどに耽溺した様子がうかがえる趣味活動ですが、これについても研究者の間では、北条家からの密命を受けた時房が、計画的に彼らが蹴鞠、歌道にのめり込むよう誘導した結果で、その目的は鎌倉殿に対する御家人たちの信頼度を落とすことにあったと考える人もいます。