分断されて他者を理解しづらくなった
わたしは能楽の稽古をしています。稽古や習い事では、必ず「先生」という存在がいます。教えを受ける立場にいることで、知らないうちに傲慢になることを防げます。
新しく習い事や稽古を始めることは、積極的に「初心者」になることですが、初心者は「自分は未熟で発展途上の存在である」ということを、頭だけではなく身をもって知ります。未知のことにチャレンジし、初心者や初学者の立場となることで、人はおのずから謙虚になります。
軽井沢(以下同)
サービス業でも家事でも、芸能界でも医療界でも、すべての現象を当事者からの視点で見てみると、そう安易には非難の言葉を投げかけることはできないはずです。相手の苦しみに共感しながら言葉を紡ぐことは、言葉を発する側にとってもそれなりのトレーニングを必要とします。
当事者、生産者、発信者など、相手の立場に回って考えてみる習慣を失ってしまうと、他者を理解することは難しくなります。現代は、いろいろなものごとが複雑化・分断化されすぎてしまい、こうしたズレや断層があらゆる場所で起きているのです。
悪口や誹謗中傷の快楽が止められない
インターネット上で悪口を書き、罵詈雑言で非難を続ける人たちの文体や言葉のスタイルを注意して研究してみると、いかにして相手の急所を一撃でつくか、そうしたことに長けていることに感心すらします。
彼らは自分が言われたくないことを、先手をうつことで防御しているのかもしれません。いじめられたくない人が、いじめる側にまわって場を支配するように。「なぜここまで、相手の急所を突く言葉を習得しているのか」と冷静に考えてみると、そうした否定的な言葉を別の状況でその人自身が言われたことがあり、その復讐行為であるようにも思えてきます。
否定的な言葉はそうした悪い循環をつくり、攻撃性を増していくことがあります。肉体的な暴力と同じです。悪口や誹謗中傷を言い続けている人は、独善的な正義感を果たしたことでスカッとした快感を得て、それが病みつきになって止められないのかもしれません。
人をジャッジする行為は、相手よりも心理的に上の立場に立つことができるため、支配欲も満足させることができます。おそらく、自分一人では止めることすらできなくなっているのでしょう。