女性嫌悪だと誤解されても…
――あのシーンを観ていて、うわぁ~っと爆発的な感情がわいたのには、そういったカメラワークがあったのですね。しかし、本作のように“説明しきらない”映画、特に性差別を描写した作品は、作り手にとって非常に危険ではないでしょうか? 観客に誤解されてしまう場合もあるのでは?
児山「この映画がミソジニー(女性嫌悪)だと表層的に捉えられたくはないですが、そうなったとしても公に反論はしないと思います。それは僕の力量だったので仕方がないと思う。分かりやすい映画をわざと作るのも、『分かる人にだけ分かればよい』という映画を作るのも両方、僕には違うと思っていて、『どうしたら分かってもらえるだろう』と常に考えながらこの映画を作りました。この映画を好きになれなかった人には『面白い映画が作れなくてすみません、でも次も頑張って作るのでよかったら観てください』と伝えたいです。
最近、世の中の『コンテンツ』と呼ばれるものがどんどん消費されるだけの傾向にある気がします。でも簡単に消費されない映画が“文化”になると思うんです。どうせ映画を作るのなら、誰かにイガイガが残る映画を撮りたい。人生の機微というか複雑性を孕んだ映画にしたかったので、試写会を観た若い人達が『この映画を観て喜びも感じたけど、すごく苦しかった』と感想を教えてくれて非常に嬉しかったですね。三国志には“埋伏の毒”という計略が出てきますが、大福を食べたら毒が入っていた、という映画にしたかったんです」
キャストには映画のテーマを伝えなかった
――本作に潜む様々な記号やセクシズムについて、監督はキャストとどんなお話をされたのでしょう?
児山「キャストには“役”に同情してほしくなかったので、映画のテーマについてはあえて話しませんでした。ただこの映画の登場人物たちはみんなそれぞれの立場とか、それに基づく正義のようなものに規範した行動をとっているんです。だから誰かの目にはすごく嫌な奴に写るけど、違う誰かの目にはそう見えなかったり、そういう多面性が出るようにしたつもりです。脚本を読んで物語のテーマをそれぞれに読み解いてもらうことに問題はないのですが、それを皆で話し合って一つの答えを出すというやり方は、そのときは必要ないと感じていました」