世界最古のヨガの教典であるヨーガースートラ。

ヨガにハマっている人なら一度は聞いたことがある言葉だと思いますが、難しそうでなんなのか分からないという人も少なくないでしょう。

この記事では、ヨーガースートラとは何なのか、その原文と内容について分かりやすく説明していきます。

ヨーガスートラとは?

『yoganess』より引用
(画像=『yoganess』より引用)
ヨーガスートラとは?
今から約2000年以上前にパンダジャリという人物がヨガについてまとめたヨガの古典。

ヨーガスートラをまとめたパンダジャリという人物について、実は分かっていることはほとんどありません。

どんな人が説明したのが分からないヨーガスートラですが、世界で初めてヨガについて解説したことからヨガの基本教典とされています。

スートラとは「糸」を意味しており、いくつもの口頭伝承で伝わっていた教えを糸のようにまとめた内容になっています。

全部で195句の短い文しかなく、非常に短いのが特徴。

ただ、もともと師匠から弟子に説明を含めて教えられてたことのため、解読するのはすごく難しいです。

そのため、ヨーガスートラに関する解釈は様々。

この記事では原文をご紹介しつつも、

ヨーガースートラの原文

『yoganess』より引用
(画像=『yoganess』より引用)

ヨーガースートラの原文は全部で4つの章でまとまっています。

  • 第一章 ヨガの目的から実践方法までヨガの全体像について
  • 第二章 ヨガの実践方法について
  • 第三章 ヨガを極めることによって生まれる知恵や能力について
  • 第四章 ヨガの哲学や心理学についての補足
ヨーガスートラ 第一章
1.1 これよりヨーガについて教える。

1.2 心の作用を止滅することが、ヨーガである。

1.3 その時、見る者【自己】は、それ本来の状態に留まる。

1.4 その他のときは、【自己は】心の様々な作用に同化した形をとっている【ように見える】。

1.5 心の作用には五種類あり、それらは、苦痛に満ちたもの(煩悩性のもの)、あるいは苦痛なきもの(非煩悩性のもの)である。

1.6 それらは、正知、誤解、言葉による錯覚、睡眠、そして記憶である。

1.7 正知のよりどころは、直接的知覚、推理、及び聖典の証言である。

1.8 誤解は、あるものに対する知識が、その実態に基づいていないときに起こる。

1.9 【基盤となる】実態がなく、単に言葉だけを聞いて生ずる心象は、言葉による錯覚である。

1.10 無を把握の対象として成り立つ心の作用が睡眠である。

1.11 過去に経験し、今も忘れられていないものを対象とする作用が意識に戻ってくるとき、それが記憶である。

1.12 これらの心の作用は、修習(アビイアーサ)と離欲(ヴァイラーギヤ)によって止滅される。

1.13 これら二者のうち、心に不動の状態をもたらそうとする努力が、修習(アビイアーサ)である。

1.14 修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣をもって励まれるならば、堅固な基礎を持つものとなる。

1.15 見たり聞いたりした対象への切望から自由である人の、克己の意識が離欲(ヴァイラーギヤ:無執着)である。

1.16 プルシャ【真の自己】の悟得によってグナ【自然(プラクリティ)の構成要素】に対してさえ渇望のなくなったとき、それが至上の離欲(ヴァイラーギヤ)である。

1.17 【サムプラジュニャータ・サマーディ:区別ある三昧】(有想三昧)には、論証性(尋)、反射(伺)、歓喜(楽)、及び純粋な我-性(我想)が伴う。

1.18 心の作用の完全停止が確固不抜に修められることによって、後に残るのは印象(サンスカーラ:行)のみとなる。これがいま一つのサマーディ【アサムプラジュニャータ・サマーディ:区別なき三昧】(無想三昧)である。

1.19 単に物質的身体を去って天界の神格たる状態に至った者、あるいは自然(プラクリティ)〔自性〕に没入した者には、再生がある。

1.20 その他の者〔ヨーギーたち〕は、堅信、努力、念想、三昧、叡智を通して、このアサムプラジュニャータ・サマーディを得ることができる。

1.21 強い情熱をもって修練する者には、これ【アサムプラジュニャータ・サマーディ】は非常に速やかに来る。

1.22 成功のために要する時間はさらにまた、その修練が穏和であるか、中位であるか、非常に熱烈であるかによって異なる。

1.23 神【イーシュバラ】への完全な帰依によっても【サマーディ】は達成される。

1.24 イーシュバラとは、いかなる苦悩(煩悩)、行為(業)、行為の結果(業報)、欲望の内的印象(業遺存)によっても染められていない無常のプルシャである。

1.25 彼の中には、一切知の種子が完全に備わっている。

1.26 彼は時間によって制限されないがゆえに、太古の師達にとってさえも師である。

1.27 イーシュヴァラを言葉で表したものが、神秘音オームである。【オームは神の名であると同時に形である】

1.28 意味を熟慮しつつ、それを反復誦唱するがよい。

1.29 これを修することにより、すべての障害が消え、同時に内なる自己の智が開け初める。

1.30 病気、無気力、猜疑、散漫、怠惰、好色、盲見、不動の境地に至り得ない状態、獲得した地歩からの滑落-これらの心の散動が、その障害である。

1.31 心の散動に随伴して起きるものに、苦悩、失意、身体の震え、乱れた呼吸がある。

1.32 ひとつの対象に集中して修練を行なう【あるいは、ひとつの技術を用いる】ことが、障害とその付随物を防ぐ最良の方法である。

1.33 他の幸福を喜び(慈)不幸を憐れみ(悲)他の有徳を欣び(喜)不徳を捨てる(捨)態度を培うことによって、心は乱れなき静澄を保つ。

1.34 あるいはその静澄は、息の制御された排出、または保留によって保たれる。

1.35 あるいは微妙な感覚的知覚に対する集中が、心の不動をもたらす。

1.36 あるいは永遠の至福に満ちた、内なる無上の光に集中することによって。

1.37 あるいは感覚対象への執着を離れた聖者の心に集中することによって。

1.38 あるいは夢や深い眠りの中で得られる体験に集中することによって。

1.39 あるいは何でも心を高揚させるようなものを選び、それに瞑想することによって。

1.40 集中の修得は次第に拡大して、根源的原始から最も巨大なものにまで及ぶ。

1.41 自然の透明な水晶が傍らに置かれた物の色や形をとるように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ(三昧)である。

1.42 名称と形態、及びそれらに関する知識が混入しているサマーディが、サヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴うサマーディ(有尋三昧)呼ばれる。

1.43 記憶が十分に浄化されると、名称と属性の境界がなくなり、集中対象の智がひとり輝き出る。これがニルヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴わないサマーディ(無尋三昧)である。

1.44 同様にして、精微な対象について修されるところの、サヴィチャーラ・サマーディ【反射を伴うサマーディ】(有伺三昧)とニルヴィチャーラ・サマーディ【超サマーディすなわち反射を伴わないサマーディ】(無伺三昧)は説明される。

1.45 精微さは集中対象として存在しなくなり、ただ定義しあたわざるものに帰着する。

1.46 以上がサビージャ・サマーディ【有種子三昧】であり、そこにはまだ修行者を束縛や心的動揺に引き戻す可能性が残っている。

1.47 ニルヴィチャーラ・サマーディが純粋となったとき、至高の自己は輝く。

1.48 これがリタムバラー・プラジュニャー、すなわち絶対的な真理意識である。

1.49 この特殊な真理認識は、聞いたり、聖典から学んだり、推理したりして得られる知とは完全に異なっている。

1.50 このサマーディによって生ずる印象(サンスカーラ:行)は、他の全ての印象を消す。

1.51 この印象さえも拭い去られるとき、あらゆる印象が完全に消滅して、そこにはニルビージャ・サマーディ【無種子三昧】がある。

ー出典:Alina Hosai
ヨーガスートラ 第二章
2.1 浄化を助けるものとして苦痛を受け入れること、霊的な書物を研究すること、至高の存在に身を委ねることが、実行のヨーガである。

2.2 それらは、障害(煩悩)を最小にして、サマーディを達成させる。

2.3 無知、我想、執着、憎悪、生命欲が、五つの障害(煩悩)である。

2.4 無知(無明)は、それに続く他の諸障害 -それらは、(1)休眠状態であったり、(2)弱体化していたり、(3)遮断されていたり、(4)維持されていたりするが- の田地である。

2.5 無知(無明)とは、無常を常、不浄を浄、苦を楽、自己ならざるものを自己とみなすものである。

2.6 我想(アスミター)とは、いわば見る者【プルシャ】の力と、見る器官【身心】の力との同一視である。

2.7 執着(ラーガ)とは、快楽体験との同一視から来るものである。

2.8 憎悪(ドゥヴェーシャ)とは、苦体験との同一視から来るものである。

2.9 生命欲(アビニヴェーシャ)は、【過去の経験から来る】独特の潜勢力から発し、賢人にさえもある。

2.10 これらの障害(煩悩)が微妙な状態にあるときは、始源の原因【=自我】に還元するところによって破壊することができる。

2.11 それらが活動の状態にあれば、瞑想によって破壊することができる。

2.12 カルマ【行為とその反作用】(業)の子宮の根は、これらの障害の中にあり、そうしたカルマが、見える生【現世】及び見えざる生【来世】における諸経験を引き起こす。

2.13 根因が存在する限り、その結実すなわち、様々な生類への再生と寿命と経験とがある。

2.14 カルマは、善業に起因するものは楽、悪業に起因するものは苦として結実(業報)する。

2.15 得たものを失うことへの恐怖と懸念、結果として心の中に残り新たな切望をひき起こす印象、心を支配する三グナの絶えざる相克、これらに鑑みるとき、識別ある者にとっては実にあらゆるものが苦である。

2.16 未来の苦は回避することができる。

2.17 その避け得る苦の原因は、見る者【プルシャ】と見られるもの【プラクリティ:自然】の結合である。

2.18 見られるものは、照明(プラカーシャ)・活動(クリヤー)・惰性(スティッティー)というグナの三つの性向を備え、元素(五大)と感覚器官から成っているが、その目的とするところは、プルシャに経験と開放(解脱)を与えることである。

2.19 グナの段階には、特殊のもの、特殊でないもの、定義されるもの、定義され得ないものの四つがある。

2.20 見る者とは見る力そのものであり、それ自体は純粋だが、心を通じて見るという現れ方をする。

2.21 見られるものは、見る者のためにのみ存在する。

2.22 それ(見られるもの)は解脱した者にとっては破壊されているが、他の者にとっては共有財として存在し続けている。

2.23 所有する者(プルシャ)と所有されるもの(プラクリティ)の結合が、それら両者が各自の本性と力(シャクティ)を把握する原因である。

2.24 この結合の原因は無知(無明)である。

2.25 この無知がなければ、そのような結合も起こらない。それが見る者の独存位である。

2.26 途切れることのない明敏な識別が、その除去の方法である。

2.27 最終段階の智は、七重である。(人は(1)もっと知りたいという願望、(2)何かを遠ざけておきたいという願望、(3)何かを得たいという願望、(4)何かをしたいという願望、(5)悲しみ、(6)恐れ、(7)惑わし、の七つが終息するのを体験する)

2.28 ヨーガの諸支分を修練していくことによって次第に不純が消え、そこに明敏なる識別へと導く智が明け初める。

2.29 以下がヨーガの八支分である。【禁戒】【勧戒】【座法】【呼吸法】【制感】【集中】【瞑想】【三昧】。

2.30 禁戒(ヤマ)は、非暴力、正直、不盗、禁欲、不貪より成る。

2.31 これらの大誓戒は普遍的なものであり、階層、場所、時間、環境等によって制約されない。

2.32 ニヤマ(勧戒)は、清浄(シャウチャー)、知足(サントーシャ)、苦行(タパス:苦痛を受容し、それをひき起こさないこと)、読誦(スヴァディアーヤ:霊的書物の研究)、自在神への祈念(イシューヴァラ・プラニダーナ:自己放棄)より成る。

2.33 否定的想念によって攪乱されたときは、反対のもの(肯定的想念)が念想されるべきである。それがプラティパクシャ・バーヴァナである。

2.34 暴力等のような否定的想念または行為がひき起こされたとき、あるいはたとえそれらが容認されただけであっても、そしてそれらが貪欲、怒り、迷妄(貪・瞋・痴:とん・じん・ち)のいずれによって煽られたものであっても、またそれらが穏和、中位、過激のいずれの度合いによってなされようとも、それらは無知に根ざしており、確かな苦をもたらすものである。このように省察することも、プラティパクシャ・バーヴァナである。

2.35 非暴力に徹した者のそばでは、すべての敵対が止む。

2.36 正直に徹した者には、行為とその結果がつき従う。

2.37 不盗に徹した者のところには、あらゆる富が集まる。

2.38 禁欲に徹する者は、精力を得る。

2.39 不貪が揺るぎないものとなったとき、自らの生の原因と様態が余すところなく照らし出される。

2.40 浄化によって、自分自身の身体への厭わしさ、他人の身体に触れることへの厭わしさが生ずる。

2.41 さらに、サットヴァの浄化、心の愉悦、一点集中、自己実現への適合性を得る。

2.42 知足(サントーシャ)によって、無上の喜びが得られる。

2.43 苦行(タパス)によって、身体と感覚の不浄が消え、超自然力が得られる。

2.44 読誦(スヴァディアーヤ:霊的書物の研究)によって、自らの望む神霊との霊交が得られる。

2.45 神に全てを任せることによって、サマーディは達成される。

2.46 アーサナ(座法)は、快適で安定したものでなければならない。

2.47 自然な性向である落ち着きのなさを減じ、無限なるものに瞑想することによって、座位(アーサナ)は習得される。

2.48 以後その者は、二元性によって乱されることがない。

2.49 安定した座位(アーサナ)が得られたならば、呼気と吸気が制御されなければならない。これがプラーナーヤーマ(調気)である。

2.50 気息のはたらき(ヴリッティ)は、内部的、外部的、制止的のいずれかである。それらは時間と空間と数によって規定され、長、短のいずれかである。

2.51 プラーナーヤーマには、内的あるいは外的な対象に集中しているときに起こる、第四の型がある。

2.52 その結果、内なる光を覆い隠していたヴェールが破壊される。

2.53 そして、心がダーラナー(集中)への適正を得る。

2.54 諸感覚がその対象から自らを撤退させ、いわば心そのものを模倣するとき、それがプラティヤーハラ(制感)である。

2.55 それにより、感覚に対する無上の統御が得られる。

ー出典:Alina Hosai
ヨーガスートラ 第三章
3.1 集中とは、心をひとつの場所、対象、あるいは観念に縛り付けておくことである。

3.2 瞑想(ディアーナ)とは、そうした対象への認識作用の絶え間ない流れである。

3.3 三昧(サマーディ)とは、この瞑想(ディアーナ)そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。

3.4 同一の対象についてこれらの集中(ダーラナー)、瞑想(ディアーナ)、三昧(サマーディ)をなすことが、サンヤマ(綜制)と呼ばれる。

3.5 サンヤマ(綜制)の終了によって、知の光が生まれる。

3.6 サンヤマは段階的になされるべきである。

3.7 これらの三支(集中、瞑想、三昧)は、それ以前の五支(禁戒、勧戒、座法、調気、制感)よりも内的である。

3.8 これらの三支さえも、無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)にとっては外的である。

3.9 生起してくる印象(サンスカーラ:雑念)は、それに代わる新たな心の作用を生むところの抑止の努力の出現によって止滅される。この、新たな作用と心との結合の刹那が、ニローダ・パリナーマ(止滅転変)である。

3.10 ニローダ・パリナーマの持続状態は、習慣づけによって確実となる。

3.11【心】の散動が滅衰して一点集中が実現してくると、サマーディ・パリナーマ(サマーディへの進展:三昧転変)が現れる。

3.12 また、過去となってひいていく想念と、今まさに生起しつつある想念が等似であるならば、それがエーカーグラター・パリナーマ(一点集中:専念転変)である。

3.13 これ(以上の三つのスートラ)によって、物質元素と感官に関する、可視的特性と時間的位相と状態の転変も説明された。

3.14 本性的に、潜伏、生起、非顕現の諸相を経ていくのは、根底体(プラクリティ)である。

3.15 それらの諸相の連続が、進化(転変)に諸段階の存在する理由である。

3.16 進化のその三段階にサンヤマ(綜制)を施すことによって、過去と未来についての知が生まれる。

3.17 通常は、語と、その意味と、その語の表象内容とを混同するために混乱が生ずる。いかなる生類により発された語(あるいは音)でも、それにサンヤマを施すことによって、その意味を知ることができる。

3.18 サンヤマによって自らの心的印象(サンスカーラ)を直感することにより、前生についての知識が得られる。

3.19 他人の身体の区別的特長にサンヤマを施すことによって、その人の想念を知ることができる。

3.20 だがそれは、その人の心の中でその想念を支えているもの(例えばその思いの背後にある動機等)にまでは及ばない。それはそのサンヤマの対象とはならないからである。

3.21 自らの身体の形態にサンヤマを施すと、観察者の眼の光を遮ることによって知覚の力に干渉し、身体を見えなくすることができる。

3.22 同様にして、音その他(触、味、香)の消失も説明される。

3.23 カルマには、速やかに発現するものと徐々に発現するものとの二種類がある。それらあるいは死の前兆にサンヤマを施すことによって、死期を知ることができる。

3.24 慈その他の徳性にサンヤマを施すことによって、それらを発する力を得る。

3.25 象その他の動物の力にサンヤマを施すことによって、それらの力を得ることができる。

3.26 内なる光へのサンヤマによって、微細なもの、秘匿されたもの、遠方のものを知ることができる。(例えば原子のように微細なもの、隠された財宝、遠隔の地など)

3.37 この知(プラティバー)より、任意の直感による超自然的聴覚・触覚・視覚・味覚・嗅覚が生ずる。

3.38 これら(超自然的感覚)は、(ニルビージャ)サマーディにとっては障害であるが、世俗的追及にあってはシッディ(力、霊能)である。

3.39 (心を身体に縛り付けている)原因を緩めることによって、また、心の働きの筋道を知ることによって、他人の身体に侵入することができる。

3.40 ウダーナ気を支配することによって、水、沼沢、刺などの上に浮揚することができる。

3.41 サマーナ気を支配することによって、身体が光輝に包まれる。

3.42 耳と虚空(エーテル)との関係にサンヤマを施すことによって、超常的な聴覚が得られる。

3.43 身体と虚空との関係にサンヤマを施すことによって、綿の繊維のように軽くなり、隠して虚空を飛ぶことができる。

3.44 身体の外にあって(身体によっては)確認されない想念派動に対してサンヤマを施すこと(マハー・ヴィデハすなわち大脱身)によって、自己の光を覆う緬紗が破壊される。

3.45 粗大及び微細な元素、それらの本質、相関性、合目的性にサンヤマを施すことによって、それらの元素に対する支配が得られる。

3.46 それにより、アニマその他のシッディがもたらされ、身体の完成が遂げられて、その機能が諸元素の影響による妨げを受けなくなる。

3.47 端麗、優雅、強靭、金剛石のごとき堅固さが、身体の完成である。

3.48 諸感覚の把握作用、それらの本質、それらの目的と我想との関係等にサンヤマを施すことによって、諸感覚に対する支配がえられる。

3.49 それより身体は、心と同じ速さで動く力、感覚の補助なしに機能する力、そして根本原因(プラクリティ)に対する完全な支配を得る。

3.50 サットヴァ(純粋な反映性)と自己との差異を認識することによって、存在のあらるる様態に対する至上位(全能)-それは全知である-を得る。

3.51 それに対してさえ無執着であることにより、束縛の種子が破壊され、かくしてカイヴァリャ(独存)の状態が顕現する。

3.52 ヨーギーは、天人からの賞賛といえどもこれを受容するべきではなく、慢心の笑みさえ浮かべるべきではない。ふたたび望ましくないものに補足される恐れがあるからである。

3.53 連続する刹那のまさしくひとつにサンヤマを施すことによって、識別知が現れる。

3.54 かくして、種類、特徴、位置などが酷似しているために見分けのつかないものが、識別されるようになる。

3.55 全ての対象のあらゆる在り方を同時的に理解するその識別知が、解脱をもたらすところの直感知である。

3.56 静穏な心(サットヴァ)の清浄さが、自己のそれと等しくなるに至ったとき、そこにカイヴァリャ(絶対、独存位)がある。

ー出典:Alina Hosai
ヨーガスートラ 第四章
4.1 シッディは、前生においてなされた修行、あるいは薬草、あるいはマントラ、あるいは苦行(タパス)、あるいはサマーディにおいてもたらされる。

4.2 ひとつの生類から他の生類への転変は、自然(プラクリティ)の流入によってひき起こされる。

4.3 付帯的事象は、直接には自然の進化をひき起こすものではない。それらは、農夫のように(農夫が自分の田に水を引き入れるために、水路を塞いでいる物を取り除くように)、障害物を取り除くだけである。

4.4 ヨーギーの我想(アスミター)のみが(人為に)発現する(その他の)心の原因である。

4.5 発現した多くの心の働きはさまざまだが、大元であるヨーギーの心は、それら全てに対する命令者である。

4.6 (そのようにして発現した心のうち)瞑想から生じたものだけが、カルマの刻印を免れている。

4.7 瑜伽士的行為,不是黑的,也不是白的。但對其他人來?是以下三者:黑的、白的和二者之混合。

4.8 これらの(行為)のうち、結実(業報)のための好条件がそろったヴァーサナー(潜在記憶)(習気:じっけ)だけが、特定の生において発現する。

4.9 欲望とその成就は、類・空間・時間によって隔てられているが、それらには連続性がある。(欲望の)印象と(欲望の)記憶とは、同一だからである。

4.10 生命欲は永遠であるので、印象もまた無始である。

4.11 印象は、原因・結果・基板・支持によって成立しているので、それら四者の消滅に伴い、これらも消える。

4.12 過去と未来は、位相差のゆえにそのような特性をもって現出しているところの、事象そのものの内にある。

4.13 顕現の状態であれ精妙な状態であれ、それらの特性はグナ性のものである。

4.14 事象の自己同一性は、グナの転変の一律性に基づく。

4.15 客体は同一であっても、それを受け止める心がさまざまであるから、認識はさまざまに異なるのである。

4.16 また、客体の存在は、ただひとつの心に依存しているのではない。もしそうであるならば、そのひとつの心がそれを認知しない場合、その客体はどうなるのか?

4.17 客体は、心がそれによって染められるか否かによって、その存在が知られたり知られなかったりする。

4.18 心の作用は、その主であるプルシャには常に知られている。プルシャは不変だからである。

4.19 心は、自ら輝くものではない。それはプルシャに知覚される客体だからである。

4.20 こころは、主・客を同時に知覚することはできない。(そのことから見ても、心は自ら輝くものではないことがわかる)

4.22 プルシャの意識は不変である。その像を映すことによって、心は自己に気付くのである。

4.23 心は、見るものと見られるものの両方から染められることによって、あらゆるものを理解する。

4.24 無数の欲望を持ってはいるが、心は他者(プルシャ)のために存在するのである。それ(心)はプルシャと連合してはじめて機能することができるからである。

4.25 心とアートマン(自己)の区別を知る者は、心をアートマンと考えることが永遠に止む。

4.26 そのとき心は識別(ヴィヴェーカ)の方へと傾き、絶対(カイヴァリャ)に引き寄せられる。

4.27 その間隙にも、過去の印象(サンスカーラ)から来る雑念が生ずることはある。

4.28 それらは、前述の(サーダナ・パダ 1、2、10、11、26)諸障害(煩悩)の除去と同様の方法によって除去することができる。

4.29 完全なる識別によって最も高い報償に対してさえ全く無欲となった者は、不断の、明敏なる識別のうちにとどまるものであり、それはダルマメガー・サマーディ(法雲三昧)と呼ばれる境地である。

4.30 そのサマーディによって、全ての苦悩(煩悩)とカルマ(業)は終熄する。

4.31 かくして、知の全ての覆いと汚れが完全に取り除かれる。この知は無限であるので、なおも知られるべきものはほとんどない。

4.32 そのとき、三つのグナはその目的を遂げたので、転変の継起を終える。

4.33 継起とは、刹那の不可分の連続である。そしてその刹那は、その転変の終極においてはじめて把握される。

4.34 かくして、もはやプルシャに仕えるという目的のなくなった三グナはプラクリティに還入し、かの無上なる独存の境地(カイヴァリャ)が現れる。それは、純然たる意識の力が自らの純粋な本性の内に安住することだといってもよい。