高野山は町全体が修行道場。その中心地といえるのが壇上伽藍です。弘法大師が高野山を開いた時、最初に手がけた場所とされ、奥の院と並んで二大聖地の一つでもあります。高野山が開かれてすぐに着手された「根本大塔」や高野山全体のご本堂である「金堂」をはじめとするお堂や塔が立ち並ぶ堂々たる姿は、まさに高野山の顔といっても過言ではありません。今でも高野山の重要な年中行事がここで行われ、時折、修行する僧侶の姿もみられます。修行道場の中心である壇上伽藍を、高野山に伝わる回り方に則ってご案内します。
焼失と再建を繰り返した壇上伽藍
サンスクリット語「僧伽藍摩」
壇上伽藍の由来は、古代インドで使われていたサンスクリット語の僧伽藍摩(そうぎゃらんま/僧侶が修行をする場所という意味の言葉)それを略して伽藍です。地面よりも少し高い所にあることから壇上を加えて、壇上伽藍。この境内の19の建物を全て含めた場所を壇上伽藍と呼んでいます。
高野山に伝わる「両壇遶堂(りょうだんにょうどう)次第」に則ると、壇上伽藍を参拝する順番は中門から時計回りに巡るのだそう。
およそ170年ぶり!復活を遂げた伽藍の正門
高野山の一番外側にある入り口大門、それに対して、壇上伽藍の正門は中門と呼ばれ、伽藍の南の入り口に位置しています。開山から数年後に建てられて以来、焼失と再建を繰り返し、天保14(1843)年の大火で全焼してからはしばらく土台の石だけしか残っていませんでしたが、開創1,200年にあたる平成27(2015)年に再建しました。
ちなみに中門再建に使われた木は、樹齢300年を超えたヒノキ。壇上伽藍の敷地内をよく探すと、立て札とともに切り株が残されています。伽藍で育まれた木の命を、中門として形を変えて生かす...いのちの大切さを実践を通して伝えています。
仏教と神道が混在する修行場
平安時代から重要だった総本堂・金堂
高野山全体の本堂に当たる金堂は、816年に創建され、高野山で最も古い歴史を持つ建造物です。過去に6回焼失しており、現在の建物は昭和7(1932)年に鉄骨鉄筋コンクリートで建てられた7代目。今でも年中行事の大半がここで行われているとか。堂内には拝観料(200円)を支払うか高野山参詣講待遇之証で入ることが可能ですが、撮影は禁止です。
重要な経典を所蔵していた六角経蔵
経蔵とは、経典を収める建物、つまり、書庫のようなもの。納められていた経典は、現在は重要文化財として霊宝館に所蔵されています。
六角形をした経蔵・六角経蔵に取り付けられている取っ手を回して、一周すれば経典を一通り読んだことと同じ徳が得られるとか...試してみてはいかがでしょう?
神仏習合の象徴!御社
仏教の聖地にある神社・御社(みやしろ)は、明神社(みょうじんじゃ)とも呼ばれています。御社の前にある建物は、拝殿の山王院(さんのういん)。御社の丹生明神と高野明神(狩場明神)を礼拝する場所で、1,000年近く前に創建されました。丹生明神と高野明神(狩場明神)についてもっと詳しい物語を知りたい方はぜひ金剛峰寺を訪れてみてください。
古来より仏教と神道は全くの別物でしたが、ここでは高野山開創前からこの地で信仰されてきた丹生明神と高野明神を祀っています。世界では宗教同士の対立が絶えないですが、ここでは昔から共存していました。日本人にとっては当たり前の、神道と仏教との融合調和(神仏習合)。この考えの礎を築いたのは弘法大師だったようです。