愛すべきジュードの熱演
(中央)アルバス・ダンブルドア(ジュード・ロウ)
そんな秘密の担い手として、ローリングが安心してすべてを託したジュード・ロウの繊細な演技が、ダンブルドアの葛藤を細やかに表現する。「君に恋をしていた」と口にされる同性への愛が、何とも切なく、美しく響く。『オスカー・ワイルド』(1997年)で同性愛者として有名な作家ワイルドの恋人アルフレッド・ダグラス卿を演じ、『リプリー』(1999年)ではマット・デイモン扮するリプリーに恋心を寄せられるハンサムな御曹司役が様になっていたジュード。
中年期のダンブルドアを演じるにあたって、ジュードは、等身大の愛を滲ませる。偉大な人物も、一度は激しい恋の病にかかり、“恋の軽やかさ”と“愛の重み”の区別が付かなかった。血の誓いを破ることができず、宿命にがんじがらめになる中年のダンブルドアは、でもまだグリンデルバルドへの想いをうっすらと残しているのが、何ともじれったく、でも切実で、等身大で、美しい!
「ハリー・ポッター」シリーズでの老年期のダンブルドアは、最初は孫を慈しむようなリチャード・ハリスの優しげなおじいちゃん風情から、ハリーの成長とともに厳格になっていくマイケル・ガンボンの冷徹な雰囲気に極端にイメージチェンジされていた。ダンブルドア像のそうした変化の中では、彼の愛情深さが見えづらかったが、ジュードの愛すべき熱演によって、その愛が全方位へ放出される。
「灯消しライター」に込められたほんとうの意味
でも、筆者としては、老年のダンブルドアでさえ、ちゃんと同性愛的な痕跡を残していたように思う。
「ハリー・ポッター」シリーズ第6作『謎のプリンス』(2009年)全編にほのかに漂っていたのは、ヘテロ(異性愛者)の世界の中に垣間見えるホモ・セクシュアルの記憶だった。しかもそれはダンブルドアにではなく、ヴォルデモートの若き日の姿であるトム・リドルの恐るべき過去が隠された回想場面に感じるのが、ちょっと皮肉っぽい。もしかしたら、実はダンブルドアとリドルはそういう関係にあったのではという、筆者の邪悪な妄想まで展開され、結局まわりまわって、第1作『賢者の石』(2001年)冒頭場面に、かすかなヒントを発見した。
その夜、幼子ハリーを親戚のダーズリー家に安全に届けるため、ダンブルドアは闇夜に姿を現し、「灯消しライター」を使って街灯の灯りを集めていた。ハリーを背負ったハグリットが、住宅街に無事に着陸できるよう、滑走路を整備する業務にすぎなかったのかもしれないけれど、筆者は必ずしもそうだとは思わない。
もちろん、『賢者の石』公開当時にはそんなこと思ってもみなかったし、原作にも匂わせ的な記述なんてどの行にも、どこの行間にも見当たらない。ハリーとヴォルデモートとの決着を見届けた後、改めて同作に立ち戻ってみると、「ああ、そういうことだったのか」と気が付くか、気が付かないかくらいの話だ。
灯消しライターのほんとうの使い方については、『死の秘宝 PART1』(2010年)でダンブルドアの遺言により、ロン・ウィーズリーに譲られたことで明かされる。ロンが苦境に立たされたとき、ライターから放出される光の中に、ハーマイオニーの声を聴いた。最愛の人の「呼び声」が、彼を暗闇から救い出す。その人の声はどんな魔法よりも強力であり、魂の奥深くにまで浸透してくる。ダンブルドアがロンに灯消しライターを形見として残したことにはこうした意味が込められていた。
これを踏まえると、灯消しライターを街灯に向けていたダンブルドアは、実はただ昔のようにグリンデルバルドの愛しい囁き声をもう一度聞きたかっただけなんじゃないだろうか。ときにユーモアと物思いに耽りがちなダンブルドアならあり得る話だと思う。彼がグリンデルバルドに求めていた「兄弟以上」の関係という表現からは、グリンデルバルドを強く想う気持ちがダイレクトに伝わってくる。それが、友達なのか、恋人なのか、とにかくダンブルドアの心情が切実であったことに変わりはない。