妻は決めた。夫をあきらめよう、と
一方、妻・美咲は幼子をふたり抱えて、24時間365日気の抜けない日々を送っているときの夫の態度に業を煮やしていた。些細(ささい)なことで夫は文句を言う。1日家にいる妻が「暇」なのだと思っている。何か言えば、「ママはすぐ言い訳するよね」と圧をかけてくる。 子どもに振り回されて息抜きさえできない日常を、夫が慮(おもんばか)ることはない。このあたりの小さな不満、ストレスの積み重ねの描き方は非常にリアルで、読んでいて胸が詰まるほどだ。
野原広子「妻が口をきいてくれません」集英社より
野原広子「妻が口をきいてくれません」集英社より
それで美咲は決めたのだ。夫をあきらめよう、夫と話すのをやめよう、と。知らないうちに心は遠く離れてしまったから。 美咲は役割だけを静かにこなしていくことにした。だから夫の弁当を作り、子どもたちの世話をし、食事の支度をする。そしてパートに出るようになった。「その日」に備えて。
「遅いよ」妻が臨界点を越えた後に優しくされても…
それでも夫の変化は美咲の心をときおり揺るがせた。せっせと妻の機嫌をとる夫をかわいそうだと思うこともあった。それでも思うのだ、「遅いよ」と。 この気持ち、本当によくわかる。私自身も離婚経験者だが、心が離れて離婚を決めたとき、夫から恋愛時代のようなやさしい言葉や態度を突きつけられたことがある。もう少し前にそういう変化を見せてくれたら、強引にでも気持ちを引き戻してくれたら、私は離婚を決めなかった。「遅いよ」と思った。一度、臨界点を超えてしまったら戻れないのだ。どんなに強い意志でやり直そうとしても。
野原広子「妻が口をきいてくれません」集英社より
ただ、幼い子どもたちがいる美咲は、簡単に離婚することはできない。だから夫と口をきくのをやめて生活だけを重視した。会話がなければ文句も言われない、イライラすることもない。美咲は少しだけ気が楽になる。だが5年たつうちに、思うのだ。「たわいもない会話がしたい」と。 最終章では、夫が離婚を口にする。それを聞いた妻は怒りを隠せない。自分から言うはずだったのに。そして妻は「私は、まだ好きなのに?」ととっさに口走ってしまうのだ。 その後、夫は娘から、5年前の「真実」を聞かされる。そしてさらに衝撃の展開が待っている。