三十歳を過ぎた女たちが目移りしてしまうのは無理からぬこと
三十代の危機はいつのまにか脱していた。これというはっきりしたきっかけがあったわけじゃないけれど、おそらくは東日本大震災の影響だという気がする。いつまでも子どものままではいられないんだと目を開かされるような体験だった。読みたい本が増え、学びたいことが増え、行きたい場所もやりたいことも書きたいこともさらには新たな推しも次から次にあらわれて、どれだけ時間があっても足らない、死ぬまでにぜんぶ達成できるかもわからない、倦(う)んでる場合じゃない! 子ども産んでる場合じゃねえな?(駄洒落じゃないです、ほんとに)と思わなかったと言ったらうそになる。いましかできないこと、いましか書けないものがあるのに、そんなことしてる場合じゃなくない? 子どもを産んだらなにかが終わる、道が閉ざされてしまうという暗いイメージしか、そのときは持てなかった(いまも完全に払拭できたかといったら怪しいところではある)。
まわりを見渡せば、「なにがなんでも子どもが欲しい」とはっきり言い切る子なし女はそんなに多くない。「どちらかというと欲しいかも?」ぐらいのテンションが多数を占める。「欲しかったけどぼんやりしているうちに機会を逃しちゃった」と頭をかきながら笑う女も少なくない。私ぐらいの年代になると、「なにがなんでも子どもが欲しい」女はすでに出産しているというのもあるけれど。 結婚して子どもを産むしか道がなかった時代と比べ、いろんな選択肢が増えた現在において、三十歳を過ぎた女たちが目移りしてしまうのは無理からぬことなのかもしれない。仕事も勉強も趣味も旅行も女子会も推し事も楽しいもんね。一日が二十四時間じゃ足りないもんね。百時間ぐらい欲しいよね。わかりみが深すぎて地中深くまで埋まりそうであるよ。 ごく狭い私の観測範囲では、男性のほうがなんの屈託もなく「子ども欲しい!」と口に出す傾向にある気がする(夫含む)。そりゃあ、相手が産んで子育てまでぜんぶやってくれるなら、私だってそう言うだろうと思う。一方で「子ども欲しくない!」とはっきり言い切ってしまえる人は男女の別なく一定数存在する。
なんということだろう。妊娠って、奇跡じゃないか
こんなことなら、迷いが生じる前に二十六歳でぽーんと産んでおけばよかった。若いころなら自然妊娠でいけただろうし、コスパもよかった。二十代、三十代と楽しかったから、後悔しているというわけでもないんだけど。 しかし、そんなことをうだうだ考えているあいだにも刻々とリミットは近づいている。なにがなんでも子どもが欲しいわけではないけれど、なにがなんでもいらないとまでは言い切れず、いまやっとかないと後悔するかもだしな……といった消極的な気持ちで不妊治療をはじめることになったのが三十八歳、ちょうど婚姻届けを役所に提出したあたりのころである。 まずは妊活の初手の初手、タイミング法からはじめることになった。最初のうちはネットで排卵検査薬を購入し、自分で排卵日を予測していた。この段になってはじめて妊娠可能なタイミングが月に一、二日だけであることを知ってがくぜんとした。排卵日の前日もしくは前々日にばっちり決めたところで、妊娠率は二十代で30%、年齢を重ねるにつれてどんどん数値は下がり、四十歳で5%ほどだといわれている。
なんということだろう。妊娠って、奇跡じゃないか。やっぱり「できちゃった婚」というより「授かり婚」と呼ぶほうがふさわしいのかもしれない。 排卵検査薬では埒(らち)が明かなかったので(素人が排卵日を見極めるのはなかなかに厳しかった)、その後、我々は不妊治療専門クリニックの門を叩くことになった。検査の結果、排卵も毎月ちゃんとあるし、精子の運動率も正常値だったのだけれど、クリニックの指導のもと行ったタイミング法では妊娠にいたらなかった。いいですか、ここ重要なところなのでもう一回言うけど、なんなら太字でお願いしたいんですけど、双方ともに生殖機能になんの問題もなくても不妊判定が出ることはざらにあるんです。えーっ、うっそー! てかんじですよね。わかる、わかるよ。わかりみが深すぎて地球の裏側まで突き抜けそうであるよ。