「女子力高いから、いい奥さんになれそう!」「なんで子ども作らないの? 可愛いよ~!」なんて言われるたび、心の奥底に溜まってゆくモヤモヤ。「ひどい」と言い返したいわけでもない、「ムカつく」とも少し違う。「それはないでしょ~」と言いたいけど、それだけじゃおさまらない! こんな気持ちを一気にスカッとさせてくれるのが、9月28日に発売された吉川トリコさんの本音炸裂エッセイ『おんなのじかん』(新潮社刊)。
WEBマガジン「考える人」の人気連載をまとめた本書には、世間の用意した言葉からはみ出す感情が余さず綴られ、読むだけで著者と本音のおしゃべりをしているかのよう。不妊治療も、流産も、体型批判への反発も、ほとばしる推しへの愛も語り尽くした本書の一部を、女子SPA!に出張掲載します。
※以下、吉川トリコさんのエッセイ『おんなのじかん』(新潮社刊)より「不妊治療するつもりじゃなかった」の章を抜粋・一部編集したものです。
思い描いていたライフプランを押し入れにしまいこんだ
いざとなったら子どもなんてすぐできると思っていた。 この世には不妊でつらい思いをしている人が山ほどいて、とんでもない額のお金をかけて治療をしていることはうっすら知っていたけれど、自分には関係のない話だと思っていた。月々の生理は乱れなくきっちりやってくるし、高脂肪で筋肉のつきにくいこの体つきからみて女性ホルモンは十分、うん、ぜんぜんいけるっしょ! という根拠のない自信があった。だから、いざ不妊治療をするという段になって、えっ、うそ、そんなばかな、と思った。この私にかぎって、そんなはずない、と。 「みんなそう言うんだよ」 とかかりつけの鍼灸師(ち)さんが、やれやれといったふうに笑って言っていた。その鍼灸院には不妊治療をしている患者が多く通ってくるらしく、妊活・不妊にかかわる知識のほとんどを私は彼女に教わった。
おかしいな、二十六歳で子どもを産むつもりだったのにどこでまちがえたんだろう……としらばっくれてみたけれど、理由なら自分がいちばんよくわかっていた。 二十六歳で子どもを産むかわりに小説家になった私は、幼いころから思い描いていたライフプランを押し入れにしまいこんだ。交友関係が広がって、楽しいことをたくさん覚えた。なにより小説を書くことが楽しかった。それまではぜんぜんお金がなかったけれど、二作目の小説が二度にわたって映像化され、自由にできるお金がちょっとだけできた。嵐にハマったのもちょうどそのころである。小説を書き、原稿料が入ったら服飾品か嵐もしくはその時々の推しに課金し、締切が終われば朝まで飲み明かし、一冊分書き終わったら海外旅行に出かける。そのくりかえしで、あっというまに時間はすぎていった。
ふと、倦怠感のようなものに襲われた三十代の半ばごろ
こんな生活を死ぬまでずっと続けていくんだろうか。 ふと、倦怠感のようなものに襲われたのが三十代の半ばごろだった。刺激的で充実した毎日、けれどすべてが想像の範疇(はんちゅう)におさまってしまう。ろくに成長もせず、世界のことなどなにも知らず知ろうともせず、甘いものばかり食べて生きている自分にうんざりしていた。なにかとんでもない傑作をものしたいという欲望だけはあるのだが、幼稚な自分には幼稚な小説しか書けず、いつまで経っても本は売れないし(映像化されれば本が売れるというわけではない)、カントリーマアムが少しずつ小さくなっているみたいに収入も目減りしていき、このままでは早晩仕事の依頼もなくなるだろうな、と漠然とした不安に駆られていた。
よし、ライフステージあげよう! そこで私は、かつて描いていたライフプランを押し入れの奥の奥から引っぱり出してきたのだった。代わり映えのない毎日に変化を求め、なにか生産的なこと(うへえ)がしたいと思って、子どもを産もうとするなんてあまりに浅はかで短絡的で、「しっかりしろよ!」と当時の自分を張り倒したくなるが、そんなことを言い出したら過去の自分ほとんどすべての瞬間を張り倒したくなるので、もうどうしようもない。
手はじめにまず私は禁煙外来に飛び込んで煙草をやめた。夫とはまだ結婚してはいなかったが、この人とずっと一緒にいるんだろうなというぼんやりした気持ちはおたがいにあった。ぼんやりと私たちは避妊をしなくなった。そうして、生理がくるたびに、がっかりするのと同時にほっとしていた。モラトリアムが延びたことにどこかで安堵し、そんな自分にぎょっとした。