江戸時代に本格的に整備された東海道五十三次。そのなかのひとつである藤沢宿を他よりもディープに詳しくご紹介してきます!歴史好きにはお勧めですよ!
東海道五十三次とは?
どこかで一度は耳にしたことがあるはず「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」。東海道というと、その昔々に整備された道かな~という認識は、世間一般ではあると思うのですが、そもそも「東海道」がどういう区分かをご存知でしょうか。
古代の日本において、五畿七道(ごきしちどう)っという地域のブロック分けがありまいた。これは、すごーく昔の行政区分です。
この五畿七道(ごきしちどう)が、いまも使われている地域ブロックの総称、例えば東海、北陸、山陽、山陰など、そういった言い方はこの五畿七道が元ネタになっています。
東海道は、名称に「海」が入っているので、なんとなくお分かりになるかもしれませんが「うみつみち」とも言われてました。風光明媚な感じがしますよね。そんな海が多い道だったので、当時の様子がわかる浮世絵でも海が多く登場します。
現代人が認識している東海道はいつできた?
前述したように、古くから東海道という定義は確立されていましたが、我々、現代人にとって有名になった街道としての東海道は、江戸時代に五街道として制定されてからです。
江戸時代に交通網ががっつり整備され、一般の人の往来も活発になっていきました。それによって、文献や浮世絵など後世の我々が目にすることができる資料が多いことも、我々現代人が認識する「江戸時代の東海道」の定着に一役かったのではないでしょうか。
昔々なので、移動手段は馬や徒歩。現代のように街灯があるわけでもなく、ポータブルのライトがあるわけでもないため、夜の移動というのは基本的に危険を伴うものでした。そこで日中歩ける距離で、休む場所がないと困るわけです。
ということで、宿場ができました。とはいっても、庶民の移動を優先して作られたわけではなく、裏事情としては、軍事利用として整備されたとも言われています。
藤沢宿とは
そんな宿場町のひとつである藤沢宿。今回は藤沢宿に焦点をあて、かなりディープに紹介します。藤沢は全国でも有数の観光地である江ノ島がありますが、当時も江ノ島参拝は大流行していました。
そんな背景もあって、江ノ島に参拝するために、とある偉人が残した軌跡も史跡として残っています。その史跡は藤沢駅の周辺に点在していますので、現在でも見て回ることができます。
それでは行ってみましょう!なかなかここまでディープに紹介している記事はないので、必見ですよ!
庚申堂(こうしんどう)
知らないと通りすぎてしまうほど、街中にひっそりとあるお堂が庚申堂(こうしんどう)です。庚申という言葉は、きっと皆さん馴染みがないかもしれません。
中国の道教に庚申信仰というのがありました。この信仰のなかで、「三尸説(さんしせつ)」という教えがあり、日本では、それをベースに仏教、密教や日本の民間のさまざまな信仰がまざった複合信仰となっています。
その信仰のなかでは、人間のカラダには生まれもって「三尸(さんし)」という三匹の虫がいる、とされています。それらは病気を引き起こす元になっています。
- 上尸(じょうし) → 人間の頭の中に住み、首から上の病気を引き起こす
- 中尸(ちゅうし) → 人間のお腹の中に住み、内臓の病気を引き起こす
- 下尸(げし) → 人間の足の中に住み、腰から下の病気を引き起こす
3匹の虫は、人間が死ぬことで、カラダの外に出て自由になるので、常々人間の寿命を縮めようと頑張っています。普段は、体内から出ることができない彼らですが「庚申の日」と定められた特定の日だけ、人間が眠っている間に体内から出ることが出来ます!
彼らはその絶好のチャンスを生かして、閻魔大王に宿っている人間の悪事を伝えて寿命を短くしてもらうのです!まあ、、、それだと人間は困っちゃいますから、虫がカラダの外に出ていかないように「庚申の日」は夜がきても眠らないために、お祭りをしてさわいでいました。
この庚申堂はそのときの集まる場所として使われていたようです。当時のパーティ会場というわけですね。