監督は虐待問題にそれほど興味を持っていないのでは

本作は日本の児童相談所の能力を疑問視しておきながら、少年が具体的にどう救済されるかについてまでは描かない。そのことで、とくに何の救済策も持っていない部外者が、実際に現実の問題に直面し解決に向けて努力している人々を軽視しているように見えてしまうのだ。そこに、現在の日本の総理大臣が政治理念として強調している「自助」「共助」「公助」という、公的福祉が後ろに下がり、自力救済を望む社会の在り方を示すスローガンや、自己責任論と類似したものを感じると言ったら、穿(うが)ち過ぎであろうか。

仮想世界で警察の役割を担う勢力は一方的な悪役に

 同様に、仮想世界における警察の役割を担う勢力を一方的に悪役として描いているのにも問題が残る。

 現実のインターネットは、劇中でも描かれているとおり、偏見や中傷にまみれている状況がある。だが、本作の脚本は、そういった状況を取り締まるのでなく、Belleの歌に一人ひとりが感動して彼女を後押しするシーンを描くことで決着させているように、最終的にはユーザーの良心を信じ、自治による治安が望まれるという結論に達している。だが、現実のインターネット空間が、そんな生易しいものではないことは、多くの人が実感しているはずだ。

 ここで発生するのが、日本で絶えず起きている現実の子どもの虐待問題について、細田監督は実際にはそれほど興味を持っていないのではないかという疑問だ。それは、『おおかみこどもの雨と雪』同様に、劇中で福祉を役立たないものとして切り捨てていることからも類推することができる。

現実の社会におけるSNSの誹謗中傷は、個人の人格を貶めて自殺するまで追い詰めるケースまで発生している。匿名で活動することが容易な性質も手伝って、差別やデマを振りまく効果的な場になっている事実もある。

 そんなモラルが著しく低下している状況下で、悪質な匿名ユーザーの行動を実際に止めるためには、法や一定のルールに照らして責任をとらせるしかないはずだ。本作は、そのような行為を“行き過ぎた正義”としてグロテスクに描いてしまっている。