なぜ高校生の鈴が一人で行動しなければならないのか
鈴は仮想空間の探索によって、父親から現実の世界で日常的に暴力的な虐待を受けている少年が東京にいることを突き止める。かつて目の当たりにした母親の犠牲的な精神にも促(うなが)され、鈴は少年を助けようと交通機関を利用して、単身で東京へと向かうことにする。
ここで論点となるのが、なぜ鈴が一人で行動しなければならないのかということだ。
鈴が虐待の事実を知って助けに行こうとしたときに、周りには大人たちも寄り添っていたし、「鈴を守る」と約束していた幼馴染の同級生も側にいたのだ。女子高校生といえば、まだ子どもであり、大人の悪意から守られねばならない存在である。
先ほどまで涙を流しながら応援していた地元の仲間たちは、そんな彼女が一人で危険に立ち向かおうとするのを、なぜ放っておくのか。その結果、鈴は実際に暴力を振るわれ、傷を負ってしまうこととなる。にもかかわらず、本作のラストシーンでは、これらの人々が鈴と一緒になって問題の解決を喜んでいるのだ。
細田監督の“女性観”に理由があるのでは
なぜ、このような不可解な展開を用意したのだろうか。それは、細田監督の“女性観”に理由があるのではないか。
じつはこれまでの細田作品は、公開の規模が大きくなるにつれて、女性の観客を中心に、劇中の女性の描き方に問題があると指摘されてきているのだ。
なかでも最も分かりやすいのが、『おおかみこどもの雨と雪』(2012年)であろう。この作品では、身を粉にして子育てをする母親の献身を、美しく神々しいものとして理想化して描いていた。だがそれは、“女性を従来の役割に縛りつける保守的な思想であり、男性特有の身勝手な幻想だ”という意見が挙がったのだ。
その文脈で考えれば、鈴が一人で東京に向かったことや、暴力を振るわれて血を流しながら少年の父親をまっすぐに見つめる描写や、その視線に恐れおののいて父親が逃げだす、一見不可解な展開などにも説明がつく。
つまり、どんな犠牲を払おうとも、子どもを守らずにはいられない母性というものを、女子高校生であっても本能として持ち合わせていて、そこには一種の神秘的な力が宿っているということだ。ここでは、そんな細田監督の思想が、一連の物語として結実しているということになる。
それは、やはり女性という存在を役割に当てはめることにつながるのではないか。また現実問題として、高潔な精神や母性を持てば、理不尽な暴力に打ち勝てるかといえば、難しいだろう。そのようなものが通用しないからこそ、世に家庭内暴力が絶えず、社会問題化しているからである。
そしてさらなる疑問は、劇中の虐待問題が解決したようにも見えないことだ。鈴の決死の行動によって、日常的に暴力を振るわれている少年は、「僕も闘うよ」と決意を固める。驚いたことに、それで本作の事件は幕引きとなってしまう。