アメリカのコーヒーの品質が下がった理由

【コーヒーの歴史】珈琲の誕生からサードウェーブまで『コーヒー史大全』
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1939年、第二次世界大戦が開戦します。これにより、アメリカのほとんどのコーヒー豆が戦地に送られてしまい、国内では配給制となりました。

アメリカ市民は少ない豆を節約してコーヒーを作るので味は当然薄くなります。

これが「アメリカのコーヒーは薄い=アメリカンコーヒー」と呼ばれる理由の一つです(※アメリカンコーヒーという名称は日本人しか使いません)。さらに、世界恐慌の影響で焙煎会社の合併や買収が始まると、コーヒー豆の“浅煎り化”の流れがアメリカ全土に広がります。浅煎りは深煎りに比べると、燃焼時間が少ないので豆の重量も減りません(燃料代も安い)。恐慌以降、どの企業も危機感を感じコストパフォーマンスを重視していたのです。「アメリカのコーヒーが薄い」という理由は歴史的背景が大きく関係しています。

“コーヒーの大衆化”、“狂騒の20年代”、“恐慌による豆の大暴落”そして“アメリカのコーヒーの浅煎り化”――19世紀末から始まり1960年代までのコーヒー文化の流れを“ファーストウェーブ”と呼ぶのです。

戦後、これまで流動的であったコーヒー市場の値動きを安定させるため「国際コーヒー協定(ICA)」が開始されます。次項ではこの協定を詳しく解説していきます。

~この時代、日本でのコーヒー文化~

1938年に制定された国家総動員法によりコーヒーは輸入規制の対象となります。追い討ちを掛けるように1944年、コーヒーは完全に輸入停止となり、日本のコーヒー文化は一時期終焉を迎えました。

コーヒーの品質向上を!国際コーヒー機関(ICO)の発足

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コーヒー(コーヒーノキ)の栽培はとても繊細で天候や環境に大きく左右されます。1954年に起きたブラジルの大霜害が発生し、コーヒー豆の生産量が大幅に下落してしまいます。

これによりブラジルのコーヒーの価格は高騰しますが、アフリカ産のロブスタ種の台頭により一気に値下がりしてしまうのです。コーヒー豆の値動きに頭を悩ましていたアフリカを始めとする中南米の国々は1962年「国際コーヒー協定(ICA)」を結び、コーヒー豆の価格を安定化させることにしました。

この協定に基づき正当な価格で取引きされるコーヒーを「コモディティコーヒー」と呼びます。1963年には多くの国がこの協定に調印し、ICAを管理・運営する「国際コーヒー機関(ICO)」が設立されました。ICOに加盟している国は「生産国」と「消費国」に分けられ、消費国は非加盟生産国からの輸入を禁止するなどの規則が設けられました。

これにより、価格は安定しコーヒーは「国際商品協定の優等生」と呼ばれ第二次(68年)、第三次(76年)、第四次(83年)と協定の更新が行われています。協定によりコーヒー豆の輸出入が安定すると、次は高品質なコーヒーに目が向けられます。そのコーヒーこそ“スペシャルティコーヒー”です。次項ではスペシャルティコーヒーに触れていきましょう。

~この時代、日本でのコーヒー文化~

1944年に完全にコーヒー豆の輸入が停止した日本でしたが、1950年に輸入再開となります。この時期にUCCやキーコーヒーといった企業がコーヒー産業に参入し、喫茶店も増加していきます。また、1953年には「全日本コーヒー協会」が発足。さらに1964年に新市場国としてICAに加盟します。翌年には三浦義武氏が缶コーヒーを開発するなど日本のコーヒー文化が一気に開花した時代です。

サードウェーブ到来! スペシャルティコーヒーの誕生

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ノルウェー出身のエルナ・クヌッセンという人物は味覚や嗅覚の鋭さを買われ、コーヒーやスパイスを扱うカリフォルニア州の会社に入社します。彼女はその後、コーヒー鑑定士の資格を取得し1974年に刊行された「ティー&コーヒー・トレードジャーナル」という雑誌内で“スペシャルティコーヒー”という言葉を世界で初めて使いました。彼女はスペシャルティコーヒーをこのように唱えたのです。

“Special geographic microclimates produce beans with unique flavor profiles.”

ー特別な地理や条件が、独特で香気のあるコーヒーを生むー

さらに彼女は1978年に開かれた国際コーヒー会議の講演でもスペシャルティコーヒー論を唱え、アメリカでは徐々にスペシャルティコーヒーという概念が広がっていきます。そして、1982年アメリカ・スペシャルティ協会が設立されたのです。

協会が発足した理由は品質の高い豆を協会全体で大量に買い付けられるということと、当時ICAで撤廃されていたコーヒー豆の輸出入制限を継続させる発言力が欲しかった、などが挙げられます。スペシャルティコーヒーが誕生し、次なるコーヒーの歴史にセカンドウェーブが到来します。次項ではセカンドウェーブについて解説していきます。

~この時代、日本でのコーヒー文化~

1970年代の日本は高度経済成長期の好景気が下降していき“脱サラ”という言葉が流行語になります。さて、脱サラした人がなにを始めるのか?多くの人が喫茶店を始めたのです。

これは「喫茶店くらいなら自分でもできる」と思った人が多かったからと言われています。この風潮は長く続き、1981年になると日本国内の喫茶店の数は15万軒、うち個人事業主の割合は13万軒という統計が取られています。

スターバックスコーヒー始まりの話

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カフェの歴史を語る上で欠かせないのはスターバックスコーヒー。スタバが創業したのは1971年なのですが、当時はカフェではなく自家焙煎した豆を販売する小売店でした。その店にハワード・シュルツという人物が入社します。彼は1984年、店舗内にバールを併設したいと発案します。

元々、自家焙煎をしていたコーヒー豆の評判が良かったのも手伝って、シュルツの案は大成功を収めます。彼はこの方向性でどんどん店舗を増やそうと提案します。

ですが、経営者の一人であるジェリー・ボールドウィンはあくまで自家焙煎にこだわりたいという理念があり、シュルツと意見が分かれてしまうのです。このことが原因でシュルツは独立し、1986年「イル・ジョルナーレ」というエスプレッソ専門店を開きます。

一方、ジェリー・ボールドウィンは経営難に陥ってしまい、1987年に「スターバックス」をシュルツに売却します。シュルツはイル・ジョナーレの看板を外し、屋号をスターバックスとしました。これが現在のスターバックスの始まりです。

80年代のアメリカではイタリアブームが到来しており、バールのような気軽に立ち寄れるカフェが数多く開業し始めます。

スタバの隆盛はこの時流に上手く乗ったとも言えるでしょう。

また、エスプレッソにも関心が集まったことで、人気のローストは浅煎りから深煎りへと変化していったのです。この時代の流れを“セカンドウェーブ”と呼びます。

スペシャルティコーヒーの誕生やスターバックスを始めとする“シアトル系カフェ”の台頭で順風満帆なように見えるアメリカのコーヒー業界ですが、この時代アメリカのコーヒー業界を揺るがす“危機”が迫っていたのです。

~この時代、日本でのコーヒー文化~

1980年代後半の日本はバブル景気の真っ只中でした。ですが、どの会社も好景気に浮かれていたわけではありません。この時代、喫茶店経営はかなり苦しく、廃業する店が続出しました。

原因として、バブル景気の影響で地価が高騰しテナント料を支払えなくなる経営者が多くいたということや、円安のため輸入品であるコーヒー豆の原価が高くなったことなどが挙げられます。

第1次、第2次コーヒー危機とは?

アメリカでスペシャルティコーヒーの文化が広まると、淘汰されるのは低品質のコーヒー豆です。ICO内での取り決めにより低品質の豆を大量に輸入しなければならなかったアメリカ(※1)は1989年ICOに抗議します。これを受けICOは輸出制限を撤廃するのですが、コーヒー生産国は撤廃を機に在庫を投売りしてしまうのです。

それがきっかけとなりコーヒー豆の価格は半値にまで大暴落します。これが「第一次コーヒー危機」です。

また1993年には交渉の折り合いがつかずアメリカはICOを脱退します。そして90年代末「第二次コーヒー危機」が到来するのです。これはコーヒー豆を栽培する農園が増加し、生産過多が原因の大暴落になります。

この時期メキシコやブラジルでも新興産地が増加しましたが、なかでも目覚しい成長を遂げたのはベトナムの農園です。

90年代以前のベトナムのコーヒー豆の生産量は微々たるものでしたが、フランスやIMFの資金援助により効率よくコーヒー豆を生産します。その結果、1999年にはブラジルに次ぐ世界第2位の生産地になったのです。このような背景が原因で需要と供給のバランスが崩壊し、コーヒー豆は2002年に底値を記録しました。

(※1).ICOはコーヒー豆の需給バランスと価格安定のため、加盟国それぞれに輸出入割り当てを決定します。つまり、「○国は○○トン輸出できる」「×国は○○トン輸入できる」と定めたのです。この決定によりアメリカはブラジルのコモディティコーヒーを大量に購入しなければなりませんでした。けしてコモディティが低品質というわけではありませんが、スペシャルティコーヒーの台頭などによりアメリカ人が高級志向になったこともICOと衝突した原因でしょう。ちなみに2005年、アメリカはICOに復帰しています。

~この時代、日本でのコーヒー文化~

日本にスペシャルティコーヒーが認知され始めたのは1987年頃と言われています。この頃、「全日本グルメコーヒー協会」が発足しスペシャルティコーヒーを日本に広めました。

1991年3月にバブルが崩壊します。リストラされた人や就職氷河期を迎える人、共働きを余儀なくされる主婦が増加し、これを機に喫茶店を経営する人も増加していきます。

また、1996年に銀座でスターバックスコーヒーが上陸します。これを受け日本はカフェブームとなり多くのコーヒーメニューが生まれました。そして2003年に全日本グルメコーヒー協会から日本スペシャルティ協会(SCAJ)が発足し、さらにスペシャルティコーヒーを国内に浸透させていったのです。

ベスト・オブ・ブラジル開催前夜

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90年代中盤、日本がカフェブームで沸くなか、世界では第1次・2次コーヒー危機の真っ只中で数々の打開策が講じられていました。その一つが1997年にICOと国際貿易センターが提案した「グルメコーヒーの可能性開発プロジェクト」です。

このプロジェクトは高品質のコーヒー豆を生産してプレミアム価格で販売できるか否かを実験するもので、生産国はブラジル、エチオピア、ウガンダ、ブルンジ、パプワ・ニューギニアとし、消費国はアメリカ、イタリア、日本と想定され生産がスタートしました。そして1998年にプロジェクト仕様のコーヒー豆がブラジルから出荷されるのですが、受け取ったアメリカは「味が値段に見合わない」と買取りを拒否したのです。

そこでICOはコーヒー豆の採点形式をSCAA方式に変更し、1999年にブラジルコーヒーの品評会「ベスト・オブ・ブラジル」を開催しました。これにより、上位入賞したコーヒー豆(カップ・オブ・エクセレント)はプレミアム価格で販売することが可能となり、グルメコーヒーの可能性開発プロジェクトは大成功となったのです。

90年代というのは日本のコーヒー文化が世界のコーヒー文化と合流した時代でもあります。そして、いよいよ現代――21世紀に突入したコーヒー文化はどのような進化を遂げたのでしょうか。サードウェーブが到来した“コーヒーの今”を解説していきます。

スターバックスの復活劇の裏ではサードウェーブが迫っていた

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90年代に一世を風靡したスターバックスコーヒー。1996年の日本出店を皮切りに、99年には韓国、中国へとアジア進出を果たします。そして21世紀、カフェ業界の王様となったスタバにも暗雲が立ち込めるのです。

ことの起こりはスターバックスコーヒーCEOのハワード・シュルツが退任した2000年に遡ります。

スタバは新たに新店舗を増やし続けた結果、コーヒーの品質を著しく下げてしまいます。

また、2007年には世界金融危機の余波を受け倒産寸前にまで追い込まれてしまうのです。そして2008年に事態を重く見たシュルツが復帰します。彼は全米のスターバックスを全店舗休業させ、従業員の再教育に取り組みます。

その結果、2011年のスターバックスは奇跡的とも言える業績回復を見せたのです。

――2000年代のスターバックスの歴史を振り返りましたが、シュルツ退任から始まったスタバの凋落はコーヒー業界に新たな“波”を呼ぶことになります。

それが“サードウェーブ”です。サードウェーブとは“マニュアル化され面白みのないシアトル系カフェではなく、コーヒー豆にこだわりを持ったバリスタが手作業でコーヒーを淹れる”ことに注目しようという流れです。

また、ジャーナリストのミッシェル・ワイスマンは“直接コーヒー農家に赴き、特定のコーヒー豆を買い付ける(ダイレクト・トレード)”というコーヒー業者の動きもサードウェーブだと提唱します。このサードウェーブの波に上手く乗ったと言われるのは小規模自家焙煎店としてオープンした「ブルーボトルコーヒー(2002年)」です。

時流に乗ったブルーボトルコーヒーは世界各地に店舗数を増やし、2015年には日本進出を果たします。

もちろん、ブルーボトルコーヒー以外にもサードウェーブの影響を受けたカフェは多く存在します。日本国内では「堀口珈琲」や「丸山珈琲」がいち早くサードウェーブの流れを取り入れたと言われています。

また、世界的に見て日本のコーヒー文化は“時代遅れ”という風潮がありましたが、2012年に作家のメリー・ホワイトが「キョート・コーヒー」や「コールド・ブリュー」といった日本独自の水出しコーヒーを紹介したところアメリカで大流行となります。

じつは、まだサードウェーブの定義は完全に定まっていないのですが、セカンドウェーブと比較してコーヒーやカフェの文化が大きく変化しているのは紛れもない事実です。

激動の21世紀。コーヒーはどのように歴史を刻んでいくのでしょうか。

コーヒーと共に歩こう

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何世紀も昔、地上に現れたコーヒーが歴史という物語を紡ぎ、今も世界中で愛されています。

ときには政治利用され、またときにはトレンドに取り入れられもしましたが、本質である“美味しさ”はどの時代でも人々を惹きつけました。

これより先、フォースウェーブ、フィフス、シックスとコーヒー文化は発展を遂げると思います。

その文化――歴史に触れ“美味しいコーヒー”を飲むことができればそれ以上の幸せはないでしょう。


提供・Cafend

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